高天原異聞 ~女神の言伝~
7 みちがえし
――兄様、もう還ってしまわれるの? どうして兄様は、下の兄様や姉様と違って、此処で暮らして下さらないの? ずっと此処に居て下さればいいのに。
――私は、豊葦原が好きなのだ。また来るよ。それまで、そなたも元気で。
――私も往きたい! 連れて往って、兄様!
――それはならぬ。そなたはこの根の堅州国の女王となる者。此処からは、離れられぬ。
――そんなの嫌。兄様や姉様達のように、私も豊葦原で暮らしたい。
だだをこねる幼い妹比売を宥めて、ようやく豊葦原に戻った。
暗闇の国に生まれ、一度も出たことのない妹は、豊葦原に憧れを抱いていた。
確かに、豊葦原は美しく、愛おしい世界だ。
祖父母が育ててくれたから、父と母がいなくとも豊葦原では何不自由はなかった。
他の弟や妹達も根の堅州国と豊葦原を往き来して、過ごしている。
母は、父を誰よりも愛しているから、あの暗闇の領界でもついていった。
自分は、この豊葦原で祖父の跡を継ぐことになるだろう。
最後の妹が産まれ、その子が父の跡を継ぐのだから心配はない。
それに、母は、自分が根の堅州国を訪《おと》なうのを、あまり快く思っていない。
父は、自分がこの豊葦原を継ぐからだと仰ったが、本当は、自分も弟や妹達と一緒に、長く根の堅州国で過ごし、母とももっと過ごしたかった。
冷たいわけではないけれど、美しい母は何処か近寄りがたかった。
弟や妹達と違って、どうしてか、傍に寄ることが躊躇われた。
自分に向ける眼差しが、弟や妹達に向けるものと違うと感じてしまうのは、何故なのだろう。
――まあ、可哀想に。
物思いに耽っていたが、その言霊に我に返る。
今の言霊は自分に向けられたのか。
辺りを見回すと茂みの向こうの木の傍に屈み込む女神の美しく長い髪が見えた。
横髪を後ろで結い上げ、簪で止めている。
その女神は、立ち上がると両手を天に向かって差し出した。
よく見ると、その手にはまだ毛の生えそろわぬ雛の姿が。
どうやら、巣から落ちたらしい。
あの女神は、雛を巣に帰そうとしているのだ。
だが、背伸びをしても届かない。
考えるより先に、女神に近づき、背後から雛を掴むと、巣に戻してやった。
――これでいい。
突然の出来事に、女神は驚いたのだろう。
――誰っ!?
ぱっと振り返った。
驚いた様も美しい、その容《かんばせ》を真正面から見た。
――……
互いの容を見るなり、互いに動けなくなった。
目合《まぐわ》った瞬間にわかった。
対の命《みこと》だ。
ようやく、出逢った。
美しく愛しい比売神との、これが出逢いだった。
「……」
明け方に、美咲はふと目を覚ます。
顔を上げれば、眠る慎也が見える。
修学旅行も無事終わり、いつもの日常が戻ってきていた。
慎也はいつも傍にいてくれる。
もう不安なことなど何もない。
それなのに、まだ美咲は夢を見続ける。
だが、死を遠ざけたからなのか、その夢を覚えていられなかった。
忘れてしまうのに何故見続けるのだろう。
この夢に、何の意味があるのか。
何を伝えたいのか。
それでも、夢は自分の中に流れ込んでくる。
せめて、少しでも覚えていたい。
抗うこともできずに、美咲はまた微睡みの中に誘われた。