高天原異聞 ~女神の言伝~

 末の妹が、根の堅州国を出て、豊葦原へ去った。
 自分達夫婦の遠い末の男神の妻として、豊葦原を治めている。
 主を喪った根の堅州国は荒れていた。
 母もすでに亡く、父も去った今、根の堅州国には主の代わりが必要だった。
 だから、まだまだ健勝の祖父に豊葦原を託し、自分は根の堅州国を治めた。
 どうやら、このまま此処で過ごすことになりそうだ。
 妻である比売を、どうやって説得すればよいものか。
 美しく咲き誇る花のような妻を、このような暗闇の国に迎えても大丈夫なのか、自信がなかった。
 だからこそ、無理強いもできない。
 まだまだともに暮らすことは叶いそうもない。
 だが、時は瞬く間に過ぎ、根の堅州国を出た妹が、神逐《かむやら》いされて戻ってきた。
 根の堅州国の本来の主が還ってきたのだ。
 だが、夫を喪い、あんなに朗らかで愛くるしかった妹は変わってしまっていた。
 放っては置けなかった。
 妹を女王として、支えてやらねば。
 豊葦原の支配権は、天孫の日嗣の御子に移ったという。
 祖父はどうやらそれに従うようだ。
 争わずにすむなら、それも良いだろう。
 天孫の日嗣は穏やかで争いを好まぬと言う。
 国津神の比売を娶って、この地に根を下ろすらしい。
 一度挨拶に伺わねば。
 その前に、妻を根の堅州国に連れて往ければいいのだが。
 これからのことを話し合うために、久方ぶりに豊葦原に戻り、祖父に挨拶を済ませると急ぎ妻の元へ向かう。
 すでに使いは送ったから、いつものこの場所で待っていれば、妻が来てくれる。
 早く逢いたかった。
 今度こそ、一緒に連れていきたい。
 妻が来てくれたら、頼むつもりだった。

――――比売様!!

 その名に、はっと顔を上げる。
 それは、妻の妹比売の名だ。
 何故此処に。
 まさか、妻の身に何かあったのか。
 慌てて身を乗り出すと、茂みの向こうに女神の姿と男神の姿が視える。
 女神の容を見て、驚く。
 あれは、妻ではないか。
 ぬばたまの瞳を見ればわかる。

――すでに言い交わした方がおります。ですから――

――何処の誰ですか。いつもそのようにはぐらかしてしまいますが、そのような方などおらぬのでしょう。

 男神が手を伸ばし、妻に触れようとする。
 その途端、今までにない感情が、己を支配した。

――触れるな!!

 荒々しい言霊が、自分の口から出た。
 鼓動が速まり、身体中の血が逆流するように熱くなる。
 驚いた男神がこちらを見る。
 茂みを乱暴に出て、足早に近づき、妻の腕を引き寄せ、片手で抱きしめる。

――すでに彼女は我が妻。二度とつきまとうな。疾く去れ!!

 怒りに、風が揺らぎ、若々しい木の葉を散らす。
 その神気に、神威に、恐れをなして男神が慌てて立ち去る。
 だが、自分の中に沸き上がった怒りはおさまることがない。
 神威も木々をざわめかせ、まるで野分のように荒れ狂っている。
 自分を見上げる妻の眼差しに気づき、はっとした。

――その瞳は……

 驚いた表情で、自分を見上げている。
 驚いて当然だ。
 このような怒りを、今まで見せたこともない。
 自分の中に、こんな感情があることにも気づかなかった。

――お怒りに、ならないで。大丈夫よ。私には貴方だけ。

 頬に触れられただけで、嘘のように怒りが退いた。
 耳元で脈打つような鼓動の音も。

――愛しい方。大丈夫。私は此処に、貴方の傍にいるわ。

 引き寄せて、抱きしめる。
 その温もりだけで、ざわめく心が静まり、満たされた。
 永いような、それとも一瞬のような時が過ぎ、抱きしめていた身体を離す。
 美しいぬばたまの瞳が、自分の瞳を覗き込み、柔らかく微笑んだ。

――よかった。お怒りは静まったよう。

――すまない。

 恥じるように目を逸らすと、白く美しい手が頬をとらえて引き寄せる。

――いいえ。私が悪いの。貴方をこんなにも待たせてしまって。でも、もう少しだけ、待って下さる? 私も、憂いが晴れれば、心おきなく貴方とともに往くことができるの。

 その言霊に、心が震える。
 いつもは頑なに拒む妻が、このような言霊を告げてくれるのは初めてだった。

――もう少しだけ待てば、私とともに、来てくれるのか。

――ええ。だから、もう少しだけ。

 その瞳にも、言霊にも、偽りはなかった。

――ならば。もう少しだけ。

 美しい唇をくちづけで塞ぐと、抗わずに応えてくれる。
 その幸福感に、全ての憂いは潰え去る――





 美しくも儚い、過ぎ去りし日々。

 本当は、すぐにでも連れ去りたかった。
 ずっと、傍にいて欲しかった。

 その欲望を、必死で抑えた。
 思うままに振る舞ったら、何をしでかすかわからない自分が怖かった。
 そんな自分の衝動を、微笑みだけで鎮めてしまう。
 抱きしめた温もりだけで満たされた心を、今はもう思い出せない。

 自分は何故、あの時、待つと言ってしまったのか。

 信じて疑わなかったあの頃の愚かな自分を今も悔やむ。
 あの時、無理矢理にでも連れ去っていたなら。
 こんなことにはならなかった。
 その悔いが、自分を捕らえて放さない。

 餓えて、飢《かつ》えて、すでに自分はおかしくなっている。
 この抗えぬ性が、満たされぬ渇望が、自分を侵食していく。

 逢いたい。

 切に、願う。
 この狂気を、止めて欲しい。
 今ならまだ、引き返せる。
 だから。
 戻ってきて。
 微笑んで欲しい。
 その温もりを確かめさせて欲しい。

 自分が、全てを、壊す前に――






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