高天原異聞 ~女神の言伝~
神逐《かむやら》いされて降り立った川辺から川上に進むと、川の音に紛れて、嘆き悲しむ声がする。
近づいていくと、大きな館と、開いたままの門が見えた。
中に入ると、身も世もなく嘆いているのは国津神の夫婦とその娘であろう比売だった。
――何を嘆くのだ。
問えば、驚いた親子が顔を上げてこちらを見返した。
――貴方様は……
――あまりの嘆きように、気になって入ってきた。何をそのように嘆いているのだ。
再度問いかけると、父神である国津神が語り出す。
大山津見命の子である足名椎《あしなづち》と手名椎《てなづち》の夫婦には、八柱の娘がいた。
この地の守り神である遠呂知《おろち》が娘である比売神を娶ったが、一年と経たずに神去ってしまう。
以来、毎年比売神を嫁がせては死なせることとなった。
そして、この末比売で最後だという。
後継ぎである末比売を喪っては、もう生きる甲斐もない。
だから、こうして嘆いているのだと。
――最後の花嫁か……
泣き濡れた容も美しい末比売は、命尽きるようには見えなかった。
しかも、この比売の額には、すでに遠呂知《おろち》の印がついていた。
遠呂知《おろち》はきっと、七柱の比売神を贄に、男神の身体を得たのだろう。
この最後の比売神を娶るために。
だからきっと、この比売が死ぬことはないのだ。
だが、それ故に、この比売神はそれを受け入れることはするまい。
姉比売を殺した遠呂知《おろち》の妻になるなど。
――定めを覆すためには、遠呂知《おろち》を滅すればいい。
――守り神である遠呂知《おろち》を滅するなど、出来るのですか……?
――策がある。末比売を遠呂知《おろち》に嫁がせたくなければ、あるものを用意してもらいたい。その後は我に任せよ。
――貴方様は、一体どなたなのですか……
――我は、創世の神から成りませる三柱の貴神《うずみこ》である。
――では、天津神で在らせられるのですか!? なんと、かような高貴な方が、我らを救いに顕れるとは――
末比売が、驚きを隠さずに、見つめてくる。
――私は、死ななくとも良いのですか……
――死の定めから、解き放ってやる。だからもう、泣くな。
遠呂知《おろち》に飲ませる強い酒を用意するのに、思ったより時間がかかった。
その間に、末比売を隠すための部屋を新たに造った。
遠呂知《おろち》の妄執から比売を隠すために、名も変えた。
遠呂知《おろち》は、すでに比売のもとへ通っていた。
贄を喰らい、現身《うつしみ》を得る事に通っていたに違いない。
それでも、比売は何も知らないのだろう。
知っていれば、きっと自ら命を絶っているはずだ。
安心させるために、仮の祝言もあげてやった。
できることなら、何も知ることなく、全てが終わればいい。
――櫛名田。俺が戻って呼ぶまで、決して扉を開けるな。外を覗いてもならん。
――わかりました。建速様のお帰りを、此処でお待ちします。ですから、どうぞ早くお戻りに。
嬉しそうに咲う比売神を最後に見て、荒ぶる神は扉を閉め、結界を張った。
これで、誰もこの中に入ることはできない。
それでも、何処か不吉な予感がした。
何が、不安だというのだろう。