高天原異聞 ~女神の言伝~
「美咲!!」
建速の言霊に、美咲は我に返る。
膝から力が抜け、倒れ込むところを、傍らの慎也が抱き寄せる。
「美咲さん!!」
横抱きにされて、近くのソファに横たえられる。
「どうした? 何を視た?」
「わからない……何かが、夢が……流れ込んできて……」
「夢? 誰の夢だ?」
「死が……近づいてくる……比売神は、それを恐れてる……」
「比売神? 咲耶比売か?」
「違う……別の……もっと幼い八番目の、比売神……」
「八番目――」
呟く建速の言霊が遠くなる。
意識はあるのに、目を開けているはずなのに、視界が暗くなる。
夢に、抗えない。
可哀想な比売神のように――
館内が、俄に慌ただしくなる。
母神が倒れた。
天之宇受売は、慌てて図書館を出て、学校の敷地に敷かれた結界を確かめる。
変化はない。
しかし、何処か妙だった。
空を仰いで、その異変に気づく。
暗闇で、覆われている。
今宵は朔だった。
だから、月が出ないのはわかる。
だが、雲一つないその空に、出ているはずの無数の星は、一つもなかった。
完全な暗闇のみ。
「どういうことだ――?」
――宇受売……
遠く、喚ぶ声がする。
「私を喚ぶのは誰だ」
この言霊は、憑坐に宿る神の声ではない。
これは、肉体を持たぬ、死神の声だ。
遠く領界を隔てた幽世からの響きであった。
――宇受売……闇の領界が、現世と重なった……
「神田比古か!?」
――幽世の神威が、現世を越えた。黄泉神が往くぞ、そなたの比礼を奪いに。
「私の比礼を……? ――まさか、これが、十種の神宝《とくさのかんだから》か!?」
――それを奪われれば、天には還れぬ。気を付けろ……
宇受売は神威を使って建速のもとへ跳んだ。
「建速様!!」
母神の近くにいる建速が顔を上げた。
宇受売に近づいてくる。
「宇受売か、どうした?」
問いに答える前に、八塚が葺根とともに館内に跳んできた。
「建速様!!」
「今度は八塚と葺根か、どうした」
「神宝《かんだから》が、奪われました!」
建速の表情が厳しくなる。
「何だと!? どれをだ?」
「全てです!! 現存し、我々が神域に封じていたもの、全てが奪われました」
青ざめた八塚の報告を聞き、建速は大きく息をつく。
「そうか――記憶を覗かれたな。八塚、死神の狙いは国津神を捕らえることではない。神宝《かんだから》の在処を突き止めることだったのだ」
建速の言霊に、八塚は動揺を隠せなかった。
「今になって何故……」
「それとも、今だからこそか――」
神宝《かんだから》が奪われるとは思ってもいなかった。
自分達が幾重にも張り巡らせた結界にいとも容易く入り込み、しかも全くそれを気づかせぬ。
八塚が気づいたのは、剣と繋がっていたからだろう。
あれは、八塚の直系が代々受け継ぐものだから。
「神宝《かんだから》が奪われたならば、目的はただ一つ」
気に懸かっていた、あの違和感は、これか。
「神を、黄泉返らせるつもりだ」
だが、誰が、誰を――?
これで、遠呂知《おろち》のもとへ嫁がなくてすむ。
この夜が明ければ、もう自由なのだ。
心が早って、とても座ってなどいられない。
末比売は落ち着かないまま、しばらく部屋の中を往ったり来たりしていた。
そうして、どれほどの時が経ったのだろう。
不意に。
風もないのに、灯りが消えた。
辺りが暗闇に包まれる。
――何故、灯りが……
暗闇で、何も見えない。
今日は朔だった。
窓もないこの部屋では、扉から漏れる月明かりも今宵は探せない。
扉の方へ近づいても、暗闇のまま。
――……比売。
その時、外から自分を呼ぶ声がした。
――建速様?
急いで、扉を開ける。
だが、扉の向こうも暗闇だけだった。
――建速様……何処にお出でなの……?
その時、暗闇に光をとらえた。
それは、美しい、紅い光。
一対の美しい紅い瞳だった。
――奇稲田比売。
真名を呼ばれて、動けない。
ただ、紅い瞳に魅入られて、何も考えられない。
――愛しい比売よ。とうとうそなたを娶る支度が整った。
ふわりと抱き上げられ、部屋の中へと運ばれた。
褥に横たえられる。
帯が解かれる。
生暖かい風を、素肌が感じた。
暗闇の中、自分に触れる手は、優しく、愛しさに溢れていた。
心地よささえ感じる。
まるで、ずっと前からこの手を知っているように。
だが、同時に恐怖が沸き上がってくる。
心の何処かがが、これは違うと告げている。
それなのに、抗えない。
こんなの嘘。
私は、あの方の妻となるのに。
絶望に、気が狂いそうになる。
これは夢。
悪い夢なの。
朝目を覚ませば忘れてしまう、夢に過ぎない。
私に触れているのは、あの方なの。
無事に遠呂知《おろち》を滅して、戻ってきてくださった。
だから、この手はあの方のもの。
このくちづけも、あの方のもの。
私は、あの方の妻になったのだから。
肌に触れられる心地よさと同じくらいの恐怖に、末比売は意識を失った。