高天原異聞 ~女神の言伝~
死神が呼び寄せた黄泉の源泉を、豊葦原の水神が押さえ付け、押し戻す。
だが、互いの神威は互角だった。
始まりの女神が召還した水神とその眷属、全ての国津神を以てして、ようやく遠呂知《おろち》を押さえ込んでいる。
それほどに、死神である八島士奴美の神威は驚異だった。
本来ならば、この豊葦原を治めるべきであった者――遠呂知《おろち》の末に相応しい神威であった。
「姉比売を斬ったように、その夫たる八島士奴美も斬らねばならぬか――」
建速の手に、すらりとした美しい十拳剣が顕れる。
姉比売である木之花知流比売を消滅させた神殺しの剣は、今なおいっそう美しく静かな炎を湛えていた。
荒ぶる神が、今また神を滅するのだ。
「別れをせよ」
建速の言霊が、小さく響いた。
「建速様、これしかないのですか……八島士奴美様は、救えぬのですか……」
咲耶比売が、懇願する。
だが、荒ぶる神はどこまでも揺るぎなく答える。
「救われようと思わぬ者をどうして救えよう。八島士奴美は、すでに死せる神だ。そして、姉比売のおらぬ世界では、生きられぬ。伊邪那岐が伊邪那美を何処までも求めるように。瓊瓊杵がそなたを追って死神となったように。対の命とは、そういうものなのだ」
「……」
神殺しの剣が、目映く輝く。
荒ぶる神の意志に応えるように。
神威を抑えぬ荒ぶる神の周囲に風が渦を巻く。
猛々しい神気に、空間が圧倒される。
結界の中にいる美咲と慎也にも視えぬ重圧がかかる。
咲耶比売と瓊瓊杵命も、鮮明にそれを感じ取った。
「何という神威……何という神気……」
瓊瓊杵命が呟く。
これが、神の力なのだ。
現身《うつしみ》を持たずとも現象できる神。
創世の神から成りませる最後の貴神《うずみこ》。
空と大地と海原だけでなく、今また炎を従え、この世の理を覆せるほどの。
それが、荒ぶる神。
「八島士奴美様……」
咲耶比売が泣いていた。
己の半神である姉比売の背の君が、憐れでならなかった。
かの神が求めたのは、唯独り――姉比売のみ。
幸せになれるはずだった、そうであった頃の寄り添う二柱の神の姿が思い出される。
「お姉様……ごめんなさい……」
轟く風が荒ぶる神の身体を宙に浮かせた。
高く、高く、絡み合う白と黒の遠呂知《おろち》の頭上まで。
黒の遠呂知《おろち》が気づいて暴れるも、白の遠呂知《おろち》が逃さぬよう押さえ込む。
「奏上致す」
建速の言霊が、地上の美咲達にもはっきりと届いた。
「古の約定に従いて、現世の理を正さん。在るべきものを、在るべき処へ。死を返し、死よりも強い生を還させ給え」
荒ぶる神の持つ神殺しの剣が、大きく振り下ろされる。
放たれた神威は過たず、真紅の軌跡を描いて黒い遠呂知《おろち》の額に当たる部分へ打ち下ろされた。
凄まじい絶叫が、大気を震わせた。
のたうち回る黒の遠呂知《おろち》を、白の遠呂知《おろち》がそれでも離さない。
ずるりと、黒の遠呂知《おろち》から、死神が抜け出た。
そして、力無く地に落ちた。
八島士奴美が抜け出た黒の遠呂知《おろち》は、瞬く間にもとの黄泉の源泉へと戻る。
国津神達がすぐさま結界の外へと押し出した。
「八島士奴美様!!」
咲耶比売は、死神へと駆け寄る。
「咲耶、待て!!」
瓊瓊杵が抱き留め、それ以上は進ませない。
「瓊瓊杵様!!」
「死神に近づいてはならぬ!!」
咲耶比売がなおも抗う。
「ですが、このまま逝かせては、姉に申し訳が立ちませぬ」
「このまま逝かせるのだ」
そう言ったのは、荒ぶる神だった。
咲耶比売と死神を遮るように降り立った建速は、地面に倒れている八島士奴美を見つめた。
「建速様……」
「そなたでは駄目だ。その姿では。ただ静かに、逝かせてやれ」
静かな涙が、咲耶比売の頬を流れる。
「では、せめて花を……美しい花を……」
「――」
荒ぶる神は止めなかった。
瓊瓊杵の腕から少しだけ離れ、咲耶比売の手が伸ばされた。
神気が揺らぎ、神威が満ちる。
図書館の入り口に並ぶ桜並木が、咲耶比売の神威を受けて、見る間に美しく花をつけた。
結界の外は、未だ闇に覆われている。
暗闇の中で静かに散る花は、美しかったがどこか寂しげだった。
青い空が欲しかった。
澄んだ空の下でならば、この花も咲き誇る様に美しかった姉を思わせてくれるだろうに。