高天原異聞 ~女神の言伝~
身を焼くような痛みが狂気を凌駕し、ふと静かな時間が流れる。
――咲耶……
全てを壊しても、この世の理を崩してでも、取り戻したかった妻を、八島士奴美《やしまじぬみ》は探す。
暗闇の中、愛しい者は何処にもいない。
傍にいると誓った愛しい妻は何処に。
涙でかすむ視界に、見えた懐かしい姿は幻か。
――咲耶……何処だ……
美しく散る花で、妻の姿を探せない。
いつもなら、晴れた空の下、咲き誇る花の中で、その姿を見いだせるのに。
心の何処かでは、わかっていたのかもしれない。
喪ったものを取り戻すことはできないのだと。
だが、唯一の対の命を喪い、もうこれ以上は耐えられなかった。
死神の自分には、この執着を終わらせることなどできなかったのだから。
遠呂知《おろち》の神威をもってしても、死の神威を手に入れても、叶わぬ願い。
願うことが、愚かだったのか。
――咲耶……
散る花の向こう、暗闇の向こうに、不意に愛しい妻の姿を見いだす。
佇むその姿は、変わることなく愛おしい。
追って逝こう。
何処までも。
そなたが暗闇の中に留まるのならば、自分もともに。
闇に降ってもなお美しく咲く花のようなそなたがいれば、暗闇でさえも愛しいものとなるだろう。
この執着を、抗えぬ性《さが》を、そなただけが鎮めてくれる。
死神の最期の執着が、遠呂知《おろち》を象り、突如、咲耶比売の憑坐に絡みついた。
「ああぁぁ――――!!」
「咲耶!?」
締め付けられた憑坐の肉体が血に染まり、咲耶比売の絶叫が響く。
傍らの瓊瓊杵が、引きはがそうと神威を放つが、絡みついていた尾に払われ、胸を切り裂かれ、倒れる。
憑坐を守るために、咲耶比売がその身体から離れる。
神霊が憑坐の肉体を抜けても、遠呂知《おろち》の妄執は追いかけることをやめない。
――咲耶!!
その命《みこと》を、同時に憑坐から離れた瓊瓊杵命が護るように抱きしめる。
神霊のみの姿となった二柱の神を追って、遠呂知《おろち》が襲いかかる。
「慎也と美咲の中へ!!」
建速が叫ぶ。
瓊瓊杵と咲耶比売の神霊は、元の憑坐である慎也と美咲の中に飛び込んだ。
追うことをやめない遠呂知《おろち》は、慎也と美咲へ向かって来る。
「建速様!!」
慎也の中の瓊瓊杵が美咲に入った咲耶比売を抱きしめ、叫ぶ。
遠呂知《おろち》が襲いかかる瞬間、慎也と美咲を護る国津神の結界が遠呂知《おろち》を弾き飛ばした。
そして、次の瞬間、突如顕れた白く光り輝く炎が、稲妻のように遠呂知《おろち》に落ち、その妄執を貫いた。
「!!」
白い炎は稲妻のように無数に遠呂知《おろち》を貫き、それ以上の動きを止めた。
遠呂知《おろち》の最後の妄執がなおも咲耶比売の神霊を求めてのたうち回るも、さらなる炎が妄執を撃ち貫く。
そして、遠呂知《おろち》を貫いた無数の炎が、一際白く輝き、遠呂知《おろち》の妄執を凄まじい熱で浄化し始めた。
――咲、耶……
白い炎が遠呂知《おろち》を包み込み、妄執がその容《かたち》を保てずに熔けてゆく。
紅い瞳が熔けて流れ、まるで、血の涙を流しているようだった。
「八島士奴美様……」
美咲の口から、咲耶比売の言霊が漏れた。
白い炎に焼かれ、八島士奴美の妄執が創り上げた遠呂知《おろち》は、ついに消え去った。