高天原異聞 ~女神の言伝~

 死神とは比べものにならぬ死の神威を携えながら、闇の主が地に降り立つ。
 濃密な死の気配に、国津神達が思わず後退る。
 闇の主は、跡形もなく消え去った死神の最期の場所に視線を馳せ、静かに呟く。

「憐れな死神に、かける慈悲もないとは――」

「闇の主よ、何故、八島士奴美を騙した」

 建速の抑えた言霊に、闇の主が咲った。

「騙すとは心外な。我は偽りを告げたのではない。死神とは、常に対等な取引をする」

 美しい琥珀の瞳が、美咲の中で恐怖に脅える咲耶比売と比売神を抱きしめる瓊瓊杵に向けられる。

「我はいつでも木之花知流比売を呼び戻すことが出来る。同時に、八島士奴美もな。我と誓約を交わした者は、誰であれ、その命を一時譲り渡したこととなる。一度でも手にした命は我のもの。滅しようとも呼び戻すことが出来るのだ」

「何だと――」

 闇の主の言霊に、咲耶比売の弱々しい言霊が問い返す。

「……では、本当に、姉を呼び戻すことが出来るのですか……?」

 闇の主の琥珀の瞳が、美咲の中の咲耶比売をひたと見据える。

「そうだ。比売神よ。そなたの憐れな半神である木之花知流比売をいつでも呼び戻すことが出来る。そなたが望み、我の欲しいものを捧げると誓うなら」

「あぁ……」

 咲耶比売が、震える足で前に進み出ようとする。

「ならぬ、咲耶!!」

「聞くな、比売神!!」

 瓊瓊杵が咲耶比売を引き留める。
 同時に、荒ぶる神の言霊に、咲耶比売は我に返る。

「も、申し訳ございませぬ……」

 美咲の身体を借りているのに、咲耶比売は闇の主に跪いて乞うところだった己を恥じた。
 だが、闇の主の言霊の響きは、信じて縋り付きたいほど蠱惑的に響いた。

「これが死の力だ。生よりも強い死の前には、神と言えども平伏《ひれふ》す他ない」

 神殺しの剣よりも、黄泉大神との誓約による結びつきが勝るという事実――絶大な死の力の前に、その場の神々は、無力な自分達を感じた。

「――それで、何をしに来た。まさか自慢話をしに来たのではあるまい」

「黄泉国に在るべき死の女神を、迎えに来た。死の呪詛が現身《うつしみ》に絡みついている、いずれ、黄泉路を降るであろう我が妻をな」

 その言霊に、国津神々達の表情が険しくなる。

「――母神は渡さぬ」

 動じずに、荒ぶる神は答える。

「荒ぶる神といえども、そのようなことを口に出してはならぬ。偽りになる故」

 ちらりと、闇の主は美咲を視たが、すぐに視線を荒ぶる神に戻した。

「まあ、よかろう。伊邪那美は黄泉返った以上、死からは逃れられぬ。そなたら神々が理を崩してくれたおかげで、現世と幽世はこれ以上ないほど重なった。礼をしよう」

 闇の主の手が闇に覆われた天空を指す。
 濃い闇の中に輝く九つの光。

「あれは――神宝《かんだから》!!」

 八塚が叫ぶ。

「黄泉神が持っていてもどうにもならぬから返すと? 何が狙いだ」

 荒ぶる神の言霊に、闇の主は美しい笑みを、その容に刻む。

「易々と渡すと思ってはおるまい。無論、誓約を。この神宝《かんだから》を使うのは、一度だけだ。今、この時限り。ならば返してやろう」

「な――っ!?」

 八塚が絶句する。
 黄泉大神の狙いは、神宝《かんだから》を使えなくすることなのだ。
 神器が存在する限り、神々は何度でも神器を使って死者を現世に呼び戻すだろう。
 そうなれば、美咲を黄泉国に呼び戻すことは叶わなくなる。
 だが、神器がその神威を喪えば、死を覆すことは誰にも出来ない――そう、死を司る闇の主以外は。

「私が誓約致しましょう」

 咲耶比売が、前に進み出る。
 だが、闇の主は優しくそれを拒んだ。

「比売神よ、そなたには我と誓約をすることは出来ぬ。この誓約は、神器を扱える天津神としか出来ぬのだ」

「――」

「ならば、私が誓約しよう」

 名乗り出たのは、瓊瓊杵命だった。

「御子様、なりませぬ!!」

 宇受売が驚いて叫ぶ。
 だが、瓊瓊杵は手を挙げて、それ以上の宇受売の言霊を止める。
 そして、建速の前に進み出で、膝をついた。

「我ら神々の犠牲となった哀れな憑坐です。その魂を呼び戻すことをお許し下さい」

 咲耶比売も瓊瓊杵の隣に膝をつく。
 見下ろす建速は、厳しい眼差しだったが、やがて諦めたように息をついた。

「よかろう」

「建速様!!」

 悲鳴のような宇受売の言霊にも動じることなく、闇の主を見据えた。

「神宝《かんだから》を――」

 闇の主は艶やかに微笑んだ。

「よかろう。天孫の日嗣、瓊瓊杵との誓約は成された。この一度限り、神宝《かんだから》はその天つ神威を使い、死者を呼び戻すことができよう」

 闇の主の両手が虚空に差し伸べられる。
 その手の先に空間の裂け目が広がる。
 裂け目からは、神気を湛えた九つの神気が次々と顕れる。
 それに呼応するように、宇受売の比礼もまた、顕れた。
 虚空に浮かぶ十種《とくさ》の神宝《かんだから》の九つが、命尽きた憑坐を取り囲む。

 鏡が二つ。
 剣が一振り。
 玉が四つ。
 比礼が三つ。

 死者をも黄泉返らす神器が神代以来、全て揃った。

「黄泉返らせるがいい。只人となってもなお利用される哀れな青人草――神々の末裔を――」

 言い捨てて、闇の主が消える。
 奇妙な緊張感が、その場に残った。
 結局、現世の闇は払われぬまま、こちら側には一度限りの神器が残ったのみ。
 母神の呪詛さえ、打ち消すこともできない。
 死神である八島士奴美を倒しても、闇の主には何ら不利にはならぬ取引だった。

 痛み分けですらない。
 これが、黄泉大神に――死の理に、抗うと言うことなのか。

 そこに在る神々の誰もが、静かな畏れに凍り付いていた。
 その畏れを、打ち消すかのような強い言霊が響く。

「神宝《かんだから》は取り戻した。未だ現世は闇の領界に呑まれたままだが、喪われたわけではない。我々は祖神たる創世の神を得て此処に在る。何を畏れる必要がある」

 全ての視線が、建速に集う。
 何処までも揺らがない荒ぶる神。
 移りゆく時の流れの中で、ただ独り、留まり続けた神。
 あらゆる生と死を見続けた神が、此処に、共に在る。
 あれほど待ち望んだ、母神と共に。
 何を畏れる必要があるのか。

「八塚、葺根――神器の護り手、神々の末裔たる血を継ぐ一族よ。かつて与えし神々の遺産、十種《とくさ》の神宝《かんだから》の封印を解くことを許す。宇受売、そなたの舞が必要だ。失われた三つの命を、神器を用いて黄泉返らせろ」

「御意に」

 八塚と葺根、続いて宇受売が、神宝《かんだから》へと近づく。

「私の代で、十種《とくさ》の神宝《かんだから》全てとまみえることができようとは――」

 八塚の声が歓喜を隠せずに震える。
 それほどに美しく、静謐な神威を湛えた神器であった。

 八塚の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 手をかざした鏡が神気を受けてさらに浮かび上がる。
 そうして、背面がぴたりと付き、合わせ鏡となった。

「葺根様、鏡を」

「うむ」

 葺根が新たな器となった鏡を受け取る。

「宇受売様、私が詠います。舞ってください」

「承知した」

 宇受売の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 憑坐の姿に、神霊の姿が重なり、そのまま神代の巫女神の姿を象る。
 同時に、比礼の二つが最後の神器である宇受売の比礼と重なり、虹のように煌めく長く美しい一枚の比礼となる。
 四つの玉は神威で繋がり、宇受売の胸元を飾る首飾りとなった。
 剣は、美しい神気を迸らせながら、宇受売の右手に――全ての準備が整った。
 瓊瓊杵と咲耶比売が慎也と美咲の姿を借りたまま、それぞれの憑坐の前に立つ。

 ゆらと震えて、神器が澄んだ音を奏でた。
 葺根が、憑坐の頭上に鏡をかざした。
 神宝《かんだから》の護り手が詠い始めた。
 詠いに合わせ、宇受売の神霊が、空を蹴って舞う。
 かつて、太陽の女神を天之岩戸から呼び戻したように。

 神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 神器を纏い、その震えに包まれて舞う宇受売の神霊が、御霊を癒す神気を放つ。
 宇受売の舞は、美しかった。
 指先から、爪先の動きまでが計算し尽くされたかのように、無駄なところが一つもなかった。
 伸ばした腕と空を斬る剣の刃光、捻った腰の動きから揺れる玉、反らされた背筋に合わせて流れる比礼さえも、舞いだった。
 舞自体が、言霊であり、神威であり、神器だった。
 その場に在る国津神々は、初めて視る天津神の巫女神――天之宇受売命の神舞に魂を奪われたかのようにただただ魅入った。

「宇受売の舞だ……」

 見上げる瓊瓊杵が懐かしげに呟くのを、咲耶比売は見惚れながら聞いた。
 宇受売の舞により、増幅された神宝《かんだから》の神威が、葺根の持つ奥津鏡《おきつかがみ》に吸い込まれる。そして、辺津鏡《へつかがみ》から、もう命のない憑坐の身体に神威が注ぎ込まれていく。
 神の憑坐だった坂崎綾と坂崎八尋の無惨な傷口が塞がり、染みついた血の痕が消えて逝く。
 屍は、見る間に眠っているように安らかな身体へと戻る。
 動かないはずの身体が、命の鼓動を脈打ち始める。
 坂崎綾の蘇生した肉体に、再び咲耶比売が触れる。
 坂崎八尋の肉体には、瓊瓊杵命が触れる。
 二人が完全に蘇生したのを確認すると、今度は瓊瓊杵と咲耶比売が綾の腹部に触れる。

 天孫の日嗣と比売神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 淡い光が、腹部を包む。
 光はやがて、強く、熱く、その場を照らす。

「――」

 母体とともに奪われたはずの微《かそ》けき命が、再び返る。
 それが、十種の神宝《とくさのかんだから》の限界だった。
 踊る巫女神の舞に合わせて、一つずつ、神宝《かんだから》から放たれていた澄んだ響きがか細くなる。

 揺らめく神気が、消えて逝く。
 満ちた神威が、喪われていく。

 神器の、最後の震えが止みし時、護り手の詠いが終わり、巫女神の舞もまた終わる。

 それが、神代から受け継がれてきた神器――十種《とくさ》の神宝《かんだから》の永遠の終わりだった。







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