高天原異聞 ~女神の言伝~
第九章 希う神々
1 別れ
太陽があり、月があり、空があり、雲があり、流れる水があり、豊かな大地がある。
だが、其処は人の住まう処ではなかった。
其処は、神々の住まう穢れなき処。
天に在る、八百万の神々が集う処。
天に在っては争いもなく、諍いもなく、老いもなく、死もない。
其処はまさに、永遠の楽土。
天つ聖地――それが、高天原。
「天照様!! 何処に!!」
天津神の領界、高天原の神域――太陽の女神の館を思兼命が主の姿を求めて慌ただしく駆けていく。
月神の館と違い、太陽の女神の館には、たくさんの采女が仕えていたが、統制が行き届いているため、無用に姿を顕さない。
案内役の采女を振り切って来たため、思兼は天照の部屋より前に、大広間へ向かった。
美しき太陽の女神は、果たして、其処に在った。
大広間の一番奥、神座に、視る者を慄かせるほどの美しさを持つ太陽の女神が、厳しい眼差しで水盤を覗き込んでいた。
「騒がしいぞ、思兼」
「ですが、一大事でございます。豊葦原が――」
「わかっておる」
近づく思兼はぎょっとしたように立ち止まる。
いつもは美しい水を湛えた水盤が、暗闇に塗りつぶされていた。
「理が崩れた。私の豊葦原が――瓊瓊杵に与えた豊葦原が、闇の領界となってしまった」
白く細い指がゆらりと水盤を撫でると、暗闇は消え去り、また、水盤の水はもとの澄んだ色へと戻る。
そこでようやく、女神は容を上げる。
だが、その表情は厳しさを湛えたままだった。
かつて建速と宇受売に与えた神器も、その神威を喪ったことが感じられた。
幽世が現世と重なり、豊葦原を呑み込んだ。
生の神威が、死の神威の前に敗れ去ったのだ。
すでに豊葦原は天津神の神威とて届かぬ処となってしまった。
すなわちそれは、天津神が黄泉神に屈したということだ。
「黄泉大神が、これほどの力を有するとは。
だが、死の神威は、黄泉の領界でしか現象し得なかったはず」
美しい容は、怒りに染まり、一層の美しさを際立たせる。
「――誰が、黄泉大神に力を与えたのだ!!」
常にない太陽の女神の怒りに、館全体が揺れる。
館の彼方此方から、采女の悲鳴が聞こえる。
だが、怒りに我を忘れた女神には聞こえる由もない。
理を崩したものは何だ。
母神か、死神か、それとも、また建速か――三貴神の最後の貴神は、いつも在るだけで、周囲を混乱させる。
神代でも。
現世でも。
「――」
「天照様、どうぞお怒りをお鎮め下さい!!」
平伏す思兼の必死の言霊に、天照はようやく我に返り、神威を抑えた。
揺れがぴたりとおさまる。
だが、水盤の水は、未だ揺れていた。
「思兼、月読はどうしていた?」
「は? 夜の御方様ですか?」
「黄泉神の神威をあれほどに増幅させるなど、どう考えても腑に落ちぬ。まさか、月読か――」
「さようなことはありますまい。夜の御方を訪なった折りは、かなり弱って寝込んでおられました。あれから夜の食国を出た形跡もありませぬ」
「だが、そなたは夜之食国で神器を奪われた。そして、その神器は黄泉大神に渡っていたではないか」
「――」
「よもや夜之食国すらも、黄泉神の手に落ちたのか――」
唇を噛みしめ、今はもう何も映さぬ水盤を見やる。
天に在っても、この水盤で豊葦原での瓊瓊杵や宇受売、神々の様子を視ていた。
最後に視えたのは、国津神達が創り上げた結界が、闇に呑まれる光景だった。
それ以降、水盤は何も映さない。
正直なところ、太陽の女神にとって、豊葦原などすでにどうでもよかった。
だが、そこには大切な者達が留まっている。
だからこそ、捨ててはおけなかった。
瓊瓊杵が黄泉返ったことを知り、喜び勇んで豊葦原に降りたが、結局、瓊瓊杵も宇受売同様豊葦原に留まることを選んだ。
そのように彼らを引き留める豊葦原を、天照には理解出来なかった。
誰も彼もが、豊葦原を愛し、留まりたがる。
国津神ならいい。
彼らはそこで生きる定めなのだから。
だが、天津神まで惹きつけて止まぬ豊葦原が許せない。
大切な者が、全て豊葦原に奪われていく。
かつても。
今も。
「……父上様、瓊瓊杵……宇受売……」