高天原異聞 ~女神の言伝~
天之宇受売命《あめのうずめのみこと》の残した軌跡が夜空から消えた後、その場には、静かな沈黙が訪れた。
山津見《やまつみ》の国津神《くにつかみ》達も嘆くのをやめ、静かにその場で空を見上げていた。
美咲と慎也も、ただ、空を見上げていた。
それ以外、どうしていいのかわからなかった。
そんな沈黙を破り、
「腹が減ったな」
徐に、建速《たけはや》が言う。
美咲は何か聞き間違った気がして、建速の方を見た。
だが、聞き違いではなかったらしい。
その証拠に、国津神達も建速の方に視線を向けていた。
「美咲の作った飯が食いたい。作ってくれ」
いきなり言われて、咄嗟に返答に詰まる。
「――え、いいけど、どこで作るの? 図書館の給湯室じゃ、みんな分は作れないわよ――」
「では、校舎へ移動しましょう。特別棟の家庭科室なら、この人数でも大丈夫です」
久久能智《くくのち》が提案する。
「お待ち下さい。移動するのはいいのですが、何を作るか確認してからのほうがいいでしょう。材料の調達もありますし」
八塚が後を引き受ける。
「何か食べたいものはあるの?」
「美咲が作るなら何でもいい」
周りを見ると、期待に満ちた眼差しで国津神達が美咲を見ている。
美咲は、簡単に作れて、大人数でも大丈夫なものを思い浮かべ、
「じゃ、じゃあ、カレー?」
そう聞いてみた。
「それでいい」
建速が頷くと、国津神達から歓声が上がる。
「母上様の手料理だ!」
「母上様、我々もお手伝い致します!」
「何なりとお申し付け下さい!」
先程までの湿っぽさはどこへ行ったのやら、国津神達が美咲へと詰め寄ってくる。
「ええっと、じゃあ買い出しと調理に分かれてくれる? 材料を調達している間に、準備をしておくから」
次々と国津神達が名乗りを上げて、あれよあれよと買い出し班と調理班に分かれる。
「買い出しも、三つに分かれて。まず、お米を調達してきて。次がカレーの材料ね。サラダとデザートも食べたいから、これで三つね。人数が人数だから、業務用スーパーに行って」
美咲が買ってくるものをメモして指示すると、買い出しの国津神達はあっという間に結界の外に出て行った。
残った国津神達が一旦図書館へと入って行く。
「では、母上様、我々も移動致しましょう」
「そうね。まず炊飯器を探さないと。一度に何台まで使えるかしら? 電気は大丈夫なの?」
「お任せ下さい。このような時のために、非常時には自家発電に切り替えられるようにしてあります」
八塚が歩きながら淀みなく答える。
「――自家発電。この高校に、どんだけ金かけたんだよ」
呆れたように慎也が隣で呟く。
「貴方様方を迎えるためです。何事も備えあれば憂いなしかと」
「備えたかいがありましたな、八塚殿」
「はい。嬉しゅうございます」
八塚が満足げに石楠《いわくす》に答える。
確かに、使わなければ宝の持ち腐れとなる所だったが、こうして使う日が来たのだから無駄ではなかったのだろう。
移動して、炊飯器を見つける頃には、米を調達してきた国津神達が戻ってくる。
それからはもう、あれよあれよと美咲は米研ぎの指示や、カレー用の野菜の下ごしらえやサラダの準備、デザートのフルーツヨーグルト作りやらで目まぐるしく働かねばならなくなった。
大鍋五つにカレールウを大量に入れ込む頃には、あらかたの準備が終わって、隣の特別教室に宴会並みのテーブルセッティングがされていた。
美咲の隣から離れない慎也にカレーの味見を頼むと、
「ん。美味しい」
満面の笑みが返ってくる。
「本当に? 薄くない?」
「うん」
「よかった。じゃあ、盛りつけて、晩ご飯にしましょう」
「はい、母上様」
恐ろしいほどの手早い流れ作業で、ご飯が盛られ、大鍋のカレーがかけられて運ばれていく。
「母上様、父上様。席にお着き下さい」
「皆が待っております」
「上座にお席をご用意致しました」
押されるように家庭科室を出ると、隣の特別教室にはぎっしりと国津神達が座って待っていた。
椅子に座りきれない者達は床に座っている。
美咲と慎也が入ると、どっと歓声が沸いた。
「母上様! ありがとうございます」
「いただきますの音頭は、父上様にお願い致します」
一瞬嫌そうな顔をした慎也だったが、皆がしつけられた犬のようにこちらを見つめているので諦めたらしい。
「美咲さんの手料理なんだから、残さず食えよ――いただきます」
律儀に手を合わせて慎也が呟くと、全員が合掌する。
「いただきます!!」
美咲は隣の建速が一口食べるのを恐る恐る見守っていた。
「どう? 口に合う?」
「ああ。美味い」
その一言に美咲はほっとする。
「よかった。作ってから、ちょっと後悔したの。辛いのが口に合わなかったらどうしようって」
「そんな心配は要らん。十分に美味い。合わなくても、口の方を合わせる」
国津神達を見ても、和気藹々と談笑しながら食事をしている。
どうやらカレーで正解だったらしい。
安心して、美咲もサラダに口を付け、食事を始めた。
宴会のような食事が一段落つくと、国津神達はこぞって美咲に詰め寄ってきた。
「母上様、おかわりは何杯までですか?」
「えええ? 多分十分に余ってると思うけど、カレーはまず一人二杯までね。それでも余るようならどうぞ」
高校生を憑坐とした男神達は喜び勇んで隣の家庭科室へおかわりを貰いに行く。
「母上様、カレーとやらにはこの漬け物がつくのはお約束なのですか?」
どんぶりに盛った福神漬けとらっきょうを指して、別の国津神が問う。
「お約束ってわけじゃないけど、大抵はついてるかな? こっちは福神漬けっていうんだけど、小中学校の給食や、お店で頼むと大体ついてくるから。らっきょうは、好みかな。カレーって中の野菜は柔らかいから、歯ごたえのあるものがあるといいなと思って」
「どちらも美味しゅうございます!」
「この甘味も美味です。これは牛の乳を発酵させて作ったというのは真でございますか?」
「ええ。これはお店で売ってるからすぐに作れるのよ。ヨーグルトと果物の缶詰があれば、汁ごと混ぜて甘みを調節するだけだから」
「現世は美味なものがたくさんあってようございますな。外《と》つ国の料理がこれほど美味いとは」
楽しそうに語る国津神達に、美咲もできる限り答えてやる。
憑坐の記憶を読み取っていて予備知識はあるものの、実際に味わうのは衝撃的らしい。
確かに、考えてみれば奇妙なことかもしれない。
国津神――古来の日本の神に、カレーライスだ。
違和感極まりないが、国津神達はその大らかさで何事も受け入れて楽しんでいる。
だが、本来日本人は、このような民族なのだ。
受け入れ、取り込み、同化する。
神々の末裔である人間達がそれを継承していてもおかしくはない。
記憶も神威も神気もなくしても、確かに、神々の血脈は密やかに息づいている。
美咲には、それが嬉しかった。