高天原異聞 ~女神の言伝~
食事の後は、国津神達が後片付けを引き受ける。
国津神達には、これも楽しいらしい。
美咲は慎也と建速、葺根《ふきね》と八塚は賑やかな特別棟を後にし、図書館へと戻る。
図書準備室に入ると、建速がちょうど職員用玄関へ向かう扉を指さす。
「開けてみろ」
「?」
言われるままに、美咲は図書準備室の自分の机の前を通り過ぎて、ドアノブをひねる。
そのまま開けると、そこにはいつも通り正面に靴箱と右手側に職員玄関が見えるはずだったが、
「えええ!?」
なかった。
代わりに、美咲のアパートの玄関と、閉じてきた引き戸が見えた。
慌てて振り向くと、
「空間を繋いでみた。図書館で雑魚寝はいくらなんでもいやだろう。八尋殿も落ち着かないだろうし、いつもの場所がいいと思ってな」
慎也も美咲の背後から覗いて驚く。
「入っても、平気?」
「窓は開けるな。それ以外ならいつも通りだ」
「了解。美咲さんも行こうよ」
物怖じせずに、慎也は繋がれた美咲のアパートの中に入っていった。
美咲も恐る恐る扉の奥へと足を踏み入れる。
そこはもう美咲のアパートの玄関だった。
靴を脱いで中に入ると、朝に出た通りの部屋のままだ。
「美咲さん、お風呂の準備するね」
何の違和感もなく、慎也が言う。
今は非常事態ではないのか。
「う、うん。先に入ってて。図書準備室で待ってるから」
「了解。終わったら呼ぶね」
「お一人では心配ですので、私達がお傍に控えております。母上様は建速様とご一緒に」
「わかった」
美咲は一旦靴を履いて図書準備室へ戻る。
アパートの玄関が図書準備膣へ繋がることへの違和感はまだあるが、最近の日常は違和感だらけなのだから、美咲も諦めて受け入れることにする。
「建速」
荒ぶる神は図書準備室の来客用のソファに座って新聞を読んでいた。
神様が新聞。
何をしても違和感が募るが、それでも、建速がしていると違和感と同時に不思議な安心感も与えるのだから、これは正に神の為せる業であろう。
「慎也はどうした?」
「先にお風呂に入るって。葺根様と八塚様がついててくれてる」
「ならば、此処に来い」
建速が自分の隣を促す。
美咲は素直に従って、建速の隣に座った。
「嘘でしょ」
美咲が言うと、建速は首を傾げた。
「何がだ」
「お腹空いたって言ったの」
「神は嘘は言わん」
「じゃあ、わざとね。だって、建速は憑坐に降りてるわけじゃないもの。お腹なんか、すくわけない」
「憑坐に降りている国津神の代わりに言ったんだ」
しれっと答える建速に、美咲は笑ってしまう。
あのままだったら、きっと美咲は自分を救けるために呪詛を引き受け、消えてしまった咲耶比売《さくやひめ》と瓊瓊杵命のことを考えて落ち込んでいただろう。
「ありがとう、建速」
「気は、紛れたか?」
「うん。だいぶ紛れた。忙しすぎて、考える暇もなかった」
「ならいい」
咲う建速は、優しく美咲の頭を撫でた。
「瓊瓊杵と咲耶比売は滅したわけではない。ただ、豊葦原にいられなくなっただけだ。今頃、黄泉国で仲睦まじくしているだろう」
「そうだといいな」
神々は嘘を言わない。
だから、建速の言うことは信じてもいいのだ。
美咲は、どこかほっとした。
「でも、黄泉国って、そんなに穏やかに過ごせるところなの?」
「死者が黄泉返るまで休まう処だ。きっと根の堅州国のように静かな国だろう。黄泉国の大門まで往ったが、静かだった。黄泉日狭女《よもつひさめ》も美しく、穏やかだったから、間違いない」
「門の向こうには、血の池とか、針の山とかがあるんじゃないの?」
美咲の問いに、建速は僅かに眉根を寄せた。
「それは、仏教の考えだろう。古来の豊葦原に、そんな概念はない。死は生の終わりであって、新たな生への始まりでもある。どちらも巡る環の中に在る対なのだ。だからこそ、生も死も、尊く、等しく、愛おしいものだ」
「どちらも尊く、等しく、愛おしい――」
「そうだ。黄泉神が憎いわけではない。ただ、我々の理《ことわり》とは違うだけだ。闇の主は、本来対立するはずのない神だ。日狭女も言っていた。黄泉国の為に動いているのであって、死神《ししん》や死人《しびと》には優しいのだと。だから、瓊瓊杵と咲耶比売も言霊通り、いずれ黄泉返る。今生では、もう離れることもあるまい」
消える最後まで幸せそうだった二柱の神の姿を思い出し、美咲はそれ以上思い悩むことを止めた。肝心なのは、何処にいるかではなく、誰を共にいるかということなのだと納得できたからだ。
と同時に、新たな疑問が沸き上がる。
「建速、櫛名田《くしなだ》比売も、黄泉返っているのよね?」
「たぶんな」
答える建速の言霊はあっさりとしすぎていた。
「捜さないの?」
「捜さん」
「どうして?」
それは、妻を追って黄泉路を降った男神達とは対照的すぎた。
この神は、だから普通の神々とは違うのだろうか。
「櫛名田は、最初に遠呂知《おろち》と交合《まぐわ》った為に遠呂知の眷属となったのだ。遠呂知は、古い肉体を脱ぎ捨て、新たに黄泉返る蛇神。櫛名田も神代から数えきれぬほど黄泉返りを繰り返し、もはや神ではなくなった。神代の記憶もなく、神威も神気も失った櫛名田を捜そうとはもう思わん。それが、あれの為だ」
「愛しているから、櫛名田比売の為に諦めたの?」
美咲の問いに、建速は静かに咲う。
女神の現身《うつしみ》は、いつも建速に思いがけない問いを投げかける。
「愛おしむより憐れだったのだ」
蛇神を拒みながらも、何処かで受け入れていた比売を。
同時に、けなげに己を慕って根の堅洲国《かたすくに》にまでついてきてくれた妻を。
それは、伊邪那岐《いざなぎ》が伊邪那美《いざなみ》に焦がれる心や瓊瓊杵命が咲耶比売を恋い慕う心とは何処か違っていると、荒ぶる神にはわかっていた。
確かに愛しんではいたが、そのように櫛名田比売を求めたことは、一度もなかったのだから。
「余りに憐れで、愛おしんだのかもしれん。憐れな者、幽《かそ》けき者を、ただ護りたかった」
だが、それも荒ぶる神にとっては確かに愛だった。