高天原異聞 ~女神の言伝~

3 女神 再び



 美しい容が泣き濡れているのを視たのが、最初の記憶だった。
 絶望に打ち拉がれたその御心を、お慰めしたかった。
 本当に必要とされていたのは、自分ではなかったけれど。
 だからなのだろうか。
 神代を遠く過ぎてもなお、己の心を満たすことが出来ぬのは。
 常に、心が満たされぬと感じてしまうのは。
 どうしたらこの満たされぬ心を、満たすことが出来たのだろう。




 足早に廊下を往く思兼は、苦々しげな表情をその容に浮かべていた。
 宇受売の神気を感じた。
 高天原に戻ってきたのだ。
 もう戻らぬと思っていたのに何故今になって。

「――」

 大広間の扉は開け放たれ、前庭には、太陽の女神が神気を揺らめかせながら立っている。
 その傍らに控えるは、采女の筆頭である巫女神。
 天孫の日嗣と共に天降るまで見続けなければならなかった光景が、再び其処に在る。

「天照様!!」

 緩やかに振り返る女神の容は、思兼を視界に入れた途端、冷めたように視えた。

「思兼」

「何処へ赴かれるのですか。よもや――」

「わかっておろうに。何故問う」

 冷たく一瞥する天照《あまてらす》に、なおも言い募る。

「高天原の主である御身が豊葦原に降るなどなりませぬ」

「すでに降りた。今更何を言う」

「すでに降りたからこそです。太陽神である御身は、天に在って輝く身なれば、下天の豊葦原に関わってはなりませぬ」

「かつても、そう言うた。だからこそ、神代では、そなたを信じて瓊瓊杵を任せたのだ。宇受売までつけた。だが、どうだ? 結局、瓊瓊杵は戻ってこなかった。宇受売さえ、今まで戻ってこなかった」

「すでに日嗣の御子様が神去られた豊葦原に、降る必要はございませぬ」

「建速がおる。父上様と母上様を守護しているのだ。会わねばなるまい」

「荒ぶる神は、高天原に叛いたのです。何故未だ囚われるのですか!?」

 太陽の女神は咲った。

「そうだな。建速は、確かに高天原に――私の意志に叛いた。月読もな」

 すっと、天照が思兼に近づいた。
 その不自然な様に、思兼は慄《おのの》いた。
 美しい容が、間近にある。
 胸の高鳴りと共に、訝しさも禁じえない。

「遙か神代で、そなたがしたことを思い起こすがいい」

 宇受売に聞こえぬほどの言霊が、耳に入る。

「……天照様?」

「我ら三貴神を引き裂いたのは誰であったか、私が気づかぬとでも思っていたのか」

「――!!」

 思兼の容が血の気を無くす。

「あ、天照様――私は……」

 膝をつく思兼を冷たく見据え、太陽の女神の言霊は続く。

「そなたのしたことを今更責めはせぬ。それが、高天原のためだと、信じていたのであろう?」

「天照様――」

 全てを見透かされていた恐怖と後ろめたさに、思兼はただ、主の名を重ねるしか出来なかった。

「確かに、そなたは正しかった。高天原の主は唯独り。並び立つ者が在ってはならぬ」

 太陽の女神の美しい唇の端が僅かに上がった。

「だが、そなたは知るまい」

 本当は、父上様が誰を高天原の主にと望んでいたかを――

 苦々しい想いが、天照の胸の内をよぎる。
 それを振り切るかのように、言霊が口をついて出る。

「全ては高天原のため――そうだ。高天原のために、今は私が往かねばならぬ」






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