高天原異聞 ~女神の言伝~
「美咲さん!!」

 名前を呼ばれて、我に返る。
 振り仰げば、自分を後ろから抱きしめている慎也の心配そうな顔が見える。

「慎也くん――」

「良かった、戻ってきた」

 抱きしめる腕の温もりを感じる。

「父上様……」

 美しい言霊が、慎也を呼んだ。
 二人が同時に視線を向けると、厳しい表情を宿した容が、こちらを視ていた。
 否、自分ではないと、美咲は悟った。
 慎也を、視ているのだ。

「神代の記憶がございませぬのか……それ故、未だ母神をお求めになるのですね」

 白くなよやかな腕が上がり、慎也へと差し伸べられる。

「還りましょう、高天原へ。此処は尊き御身が在る処ではございませぬ」

「何、言ってる……」

 戸惑ったような慎也の声。
 太陽の女神の言霊は、純粋に伊邪那岐を思う心で満ちていた。

「母上様が死の女神となられたのは、理なのです。理に抗ってはなりませぬ。母上様が在るべき処は黄泉国。父上様は高天原。記憶が戻れば、父上様も還るべきだとおわかりになるでしょう」

「黙れよ!!」

 耳元近くで突然慎也が怒鳴ったので、美咲の身体はびくりと震えた。

「帰れ、天へ!! 俺達はどこにも行かない!!」

 美咲を強く抱きしめて、慎也は叫ぶ。
 その剣幕に、太陽の女神は、一瞬だけ傷ついたような表情をその容に宿した。
 差し伸べられた手が力無く下ろされる。

「いずれ、記憶も戻りましょう。それまでは、豊葦原に留まるがよろしい。ですが、お迎えにあがるのはそう遠きことでもなさそうです」

 慎也に一礼すると、太陽の女神の姿が一際白く輝き、そして、光と共にその美しい姿も消えた。
 後には、再び夜の闇ばかり。

「――」

「慎也くん、痛い。少し力を緩めて」

 美咲のその言葉に、慎也ははっとしたように腕の力を緩めた。
 美咲が顔を上げると、慎也の顔は青ざめて見えた。

「慎也くん?」

「――」

「慎也、美咲。中に入れ。話はそれからだ」

 応えずにいる慎也を庇うように建速が言霊をかける。
 それにも応えることなく、慎也はただ美咲の肩を抱くと、足早に図書館へと引き返した。

「母上様――」

 石楠と久久能智が出迎える。

「何してた」

 慎也の低い声が漏れた。

「慎也くん?」

「俺達を護るって言ったくせに、何してた。隠れて見てただけか!?」

 荒げた声が、苛立ちを如実に表していた。

「申し訳ございませぬ!!」

「我々では、太陽の女神の御前に出でることが出来ませんでした」

 石楠と久久能智が跪く。

「そんなに太陽の女神とやらが怖いのかよ」

「慎也くん」

「三貴神は別格なのです」

「我らのように父上様と母上様の交合いより産まれたのではなく、生と死の交合いによって成った至高の神霊――陰と陽の神気、生と死の神威を併せ持つ故、我々国津神は、三貴神には敵わぬのです」

「だから、建速や天照や月読は、みんなと違って、人間の憑坐を必要とせずにこの豊葦原に現象できるのね」

「左様でございます」

「天に在るはずの高位の神格が突如豊葦原に現象し、我ら国津神は皆畏れ慄いているのです」

 項垂れる石楠と久久能智を庇うように、建速が言う。

「天照が何を言っても、必ず護る。お前達を引き離したりはせん」

 だが、強い言霊にも、慎也は安心できずにいるように見える。
 美咲の手を掴んで、図書準備室へと向かおうとする。

「もう寝よう、美咲さん」

「え? で、でも」

 戸惑う美咲に、建速が促す。

「慎也の言う通りだ。二人とも、もう寝ろ」

 建速が言い終える前に、慎也は美咲の手を引いたまま、どんどん進んで、図書準備室から美咲のアパートへと戻った。そのまま、美咲をベッドに押し込むように寝せると、自分も明かりを消して、隣に寄り添ってきた。
 いつもなら慎也の腕に抱かれて眠ると、それだけで安心できたのに、今日は違った。
 他ならぬ慎也が、不安そうに美咲を抱きしめるからだ。

「慎也くん――」

「何?」

 あまりの脅えように、美咲の方が戸惑ってしまう。
 なぜ、慎也はこんなにも脅えているのだろう。

「約束したよね。ずっと一緒だって」

「うん」

「それなのに、何が怖いの?」

「――」

「建速も国津神もいるわ。必ず護ってくれる。今だって、ずっと一緒でしょ?」

「それでもだ」

 慎也がさらに美咲を抱き寄せる。

「何度確かめても足りないんだ。いつも、美咲さんが遠くへ行ってしまうような気がする。記憶なんかなくていい。美咲さんも、もう何も思い出さないで。今こうしていられるのに、前世の記憶なんか要らないだろ」

 抱きしめる腕の強さが、嬉しいのにどこか哀しかった。
 慎也の不安が、現実になるような気が、美咲もしていた。
 思い出さないまま、一緒にいられたらいいけれど。
 多分、思い出さずにはいられないだろう。
 自分の記憶は、僅かずつだが確実に戻りつつある。
 それが、夢なのだ。
 夢を見ながら、神代の出来事を追体験している。
 全ての記憶が戻るのを、きっと止める術はない。
 咲耶比売の言っていた、最後の刻《とき》――それはなぜか太陽の女神が告げたように遠いことではないように感じながら、美咲はまた夢に引き込まれた。





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