高天原異聞 ~女神の言伝~

5 神々の憂い


  月神は未だ微睡みの中にいた。
 すでに夢は、月神にとって安息だった。
 ふと目覚めれば、其処は自分しかいない部屋の中。
 暗く、静かで、美しい。
 だが、今や此処は寂しいだけの処となった。
 そう、此処は檻なのだ。
 神逐かむやらいされた自分を閉じ込める檻。
 そんな現が哀しかった。

 こんな処にいたくない。

 虚ろな意識が、そう思う。
 でも、高天原にももういられない。
 掟を破ったのだから。
 自分は穢れてしまった。
 天に在るには、相応しくない。

 どうしてこんなことになったのだろう。
 自分はただ、姉上と一緒にいたかっただけなのに。
 ただ、それだけだったのに。

 思い返すには、あまりにも哀しくて、月神はまた、微睡みの中に逃げ込んだ。





 高天原の主の朝は、禊ぎから始まる。
 常に清水が沸き出でる其処は、太陽の宮の東にあった。
 東側の扉を大きく開け放ち、朝日が取り込まれる造りのその部屋は、水を湛える場所に翡翠を敷き詰めてある。
 部屋の中央は薄布で幾重にも仕切られており、中には限られた采女が太陽の女神の両脇に立ち、禊ぎの世話をしていた。
 思兼は、いつものように薄布の外である西側の板の間に控えた。
 薄布越しに、帯を解かれ夜着から腕を抜く天照の影が視える。
 何も身に付けぬ身体が、前に進み、清水に満たされた翡翠の階きざはしをゆっくりと降りて身を浸していく。
 美しく長い髪も清水によって清められ、水の中に広がる様を、思兼は思った。

「豊葦原は、未だ夜か――」

 暫し後に、僅かな水音とともに、心震わす言霊が向けられる。

「左様でございます」

「ならば、国津神達も悟るであろう。母上様を黄泉国に返さねば、永遠に豊葦原には朝は来ぬと」

 水音とともに、階を上がってくる気配がする。

「建速がどう動くか見極めねばならぬ――」

「静観なさるのですか」

 応いらえはなかった。
 主の意志は、伝えられたのだから。
 問いただす響きを帯びた言霊を、思兼は恥じた。

「禊ぎには、明日から宇受売が付く」

「――」

「これからは、全て宇受売を通せ」

「――御意に」

 伏せた視線を、上げる。
 そのまま静かに立ち上がり、思兼は禊ぎの間を後にした。

「――」

 最後に垣間見た薄布越しの裸身は、輪郭だけでも息を呑むほど美しかった。
 決して己が手には触れられぬとわかっていても。
 否――わかっているからこそ、他の誰にも、渡したくなかった。
 その心を、神代でも、今再び目覚めた後でも、抑えることが出来ぬとは。
 それでも。
 後悔はしない。
 高天原の主のために、有害となるものは全て取り除いてみせる。
 それが三貴神であろうとも。





 そろそろ禊ぎも終えた頃だろうと、宇受売は天照の部屋へと向かう。
 神代での記憶通り、中庭を横目に見ながら、歩く。
 中庭の景色も、咲く花々も、木々も、神代に在った処に、寸分違わず在る。

 永遠に変わらぬ世界。

 それが、高天原なのだ。
 変遷を繰り返す豊葦原とはかけ離れた、時を留めたままの世界は、何処か懐かしいのに、奇妙にも思えた。

「宇受売様」

 不意に声をかけられ、宇受売は立ち止まって声のした中庭の奥へと視線を向ける。
 中庭の木立の影に、背の高い天津神が立っている。
 宇受売のように長い髪を高く結い、そのまま垂らしている。
 此方を見つめる瞳は、金と赤の斑まだらだった。

「そなたは――」

「天之斑駒あめのふちこまと申します」

 その名を、遠い神代で聞いたことがあった。
 神逐かむやらいされる前の荒ぶる神とともに、狼藉を働いたとされる神ではなかったか。
 度重なる狼藉にて、荒ぶる神はとうとう高天原を神逐かむやらいされることとなったのだ。

「いきなり顕れた無礼をお許し下さい。宇受売様にお伺いしたいことがございまして、罷り越しました」

「私に? 何用だ?」

「豊葦原で、宇受売様は建速様のお傍に在ったとか。あの方は、御健勝で在らせられましたか」

「――何故、そなたが建速様を」

「あの方には並々ならぬ御恩情を頂きました。今の私が在るのは、全て建速様の御陰なのです」

「建速様は、豊葦原で祖神様を御護りしておる。高天原に在らせられた時と、何ら変わる処はない」

「左様にございますか。安堵致しました。では」

 宇受売の応いらえを聞くと、斑駒はすぐに姿を消した。
 その素早さに、宇受売は問い返す暇さえなかった。
 三貴神である建速が神逐かむやらいされたのに、天之斑駒は、何の咎もなく高天原に在る。

 一体どういうことなのだろう。

 物思いに気を取られ、宇受売は背後の気配に気づくのが遅れた。

「宇受売」

 呼ばれて振り返ると、思兼命が立っている。

「思兼様」

「天照様のお傍に上がるのか」

「ええ」

 思兼の眼差しが、自分を探るように睨め付けるのを、宇受売は沈黙とともに受け止めた。

「不思議なものよ。豊葦原では、荒ぶる神についたそなたが、何故高天原に戻ったのか」

 その言霊に、宇受売は眉を顰める。

「それは、どういう意味でしょうか?」

「そなたの主は、未だ天照様であるのか――」

「建速様のために、私が戻ったと? 高天原を探るために?」

「そうは思わぬ。ただ、何故今なのかとな」

 どうしてか、神代の時から、宇受売には思兼の言霊が、真の心を発しているようには思えなかった。
 天津神は、偽りを語らぬ筈であるのに。
 国津神とて、そうで在る筈なのに。

 何故、思兼の言霊にだけ、偽りの響きを感じるのだろう。

「思兼様、私も不思議に思っていたことがあるのです」

 宇受売は、真っ直ぐに思兼を見据えた。
 真実を見極めるように。

「月読様は、心優しき御方でした。高天原の掟を破ったのは、余程のこと。それなのに、理由も問わずに建速様とともに追放したのは、何故ですか。建速様の神逐かむやらいの理由も、納得がいきませぬ。三貴神を引き離すなど、許されることではありませぬ」

 僅かに揺らいだ、眼差し。
 そして、目を逸らしたのは、思兼の方だった。

「――それこそ考えすぎというもの。宇受売よ、高天原に戻ったのならば、高天原の主を唯一とせよ。月神も荒ぶる神も、高天原の秩序を乱したのだ。それは、太陽の女神に叛く罪。太陽の女神に仇なす者が在ってはならぬ。それが三貴神で在っても」

 視線を戻した眼差しには、すでに何の揺らぎもない。
 それでも、その瞳の奥には、何処か底知れぬ、推し量れぬ、何かが在るのだ。

 この違和感は、何なのだろう。

 だが、宇受売はそれ以上思兼の心を探ることは出来なかった。
 踵を返し、思兼は去って往った。

「――」

 諦めて、宇受売も天照の部屋へと急ぐ。
 禊ぎを終えた太陽の女神は、相も変わらず、視る者を慄かせるほどの美しさで其処に在る。

「宇受売、近うよれ」

 近づく宇受売を、天照は傍らに座らせる。

「本当に、戻ってきたのだな。嬉しいぞ」

「勿体なき言霊でございます」

 視線を上げると、先程より幾分和らいだ容が近くにある。

「瓊瓊杵とそなたの話を聞かせてくれ。豊葦原では、どのように過ごしていたのだ」

「幸せと言うのは、真に一時の夢のようなものなのですね。私も瓊瓊杵様も、愛しい者とともに在った時は、刹那でありました。それ以降は、永く苦しい日々だった記憶しかございません」

 差し伸べられた手を、宇受売は取る。
 引き寄せられて抱きしめられれば、神代と何ら変わらぬぬくもりと安らぎがある。
 安堵するとともに、何も変わらぬ太陽の女神を憐れにも思う。

「天照様、私がおらぬ間、誰かお傍に?」

「誰がいるというのだ? 私の心をわかる者など」

 その言霊に、宇受売は泣きたくなった。
 では、この方は、己の対を追放したその時から、ずっと独りなのか。

「宇受売、そなたは、もう何処にも往くまい。ずっと私の傍に在ってくれるだろう?」

「はい。天照様。宇受売は、もう何処にも往きません。天照様のお傍におります。ですから、もう泣かないでくださいませ」

「私は泣かぬ」

 いいえ。心で、泣いておられるのです。三貴神で在らせられるのに、その御二方と引き離されたあの遠い神代から、今までずっと。

「天照様――」

 何故、三貴神で在られる御方が、本来、ともに在るはずの神々が、このように引き裂かれてしまったのか、宇受売には腑に落ちないことばかりだ。
 全てが目まぐるしく動き、わけもわからぬまま、ある日突然、月神と荒ぶる神は神逐かむやらいされた。
 ただ、あれ以来太陽の女神は、朗らかに咲うこともなく、凍てつき、溶けることのない凍土のように頑なになった。
 やがて自分は、天孫の日嗣とともに豊葦原へ降ることとなり、そうして、天照のもとへは誰も残らなかった。
 愛しい者達は、誰も――

 この孤独で美しい主を、どうしたら救えるのだろう。

 その問いの答えを、宇受売は未だ持たなかった。






< 360 / 399 >

この作品をシェア

pagetop