高天原異聞 ~女神の言伝~

8 謀り事


 図書準備室のソファーに、慎也は眠っている美咲を抱きしめたまま座っていた。

「美咲さん、起きて。早く戻ってきて」

 何度呼んでも、美咲は動かない。
 こんな風に美咲が眠っているのを見るのは、嫌だった。
 このまま目を覚まさないんじゃないかと思ってしまうからだ。

「慎也、食事をしろ」

 建速がソファーの前のテーブルに温かい汁物とおにぎりを載せたトレイを置くが、慎也は首を横に振る。

「食べたくない」

「食べろ。美咲が戻ってきた時、今度はお前が倒れたら美咲が哀しむ」

 そう言って、建速は慎也の向かい側のソファーに腰を下ろした。
 慎也は顔を上げて、建速を見据えた。

「――建速、あんたの『天』って、誰だよ」

 突然の問いに、建速は慎也を視つめる。

「――」

「造化三神は、もういないんだろ? あんたの言う天命は、誰が授けたんだ」

「そんなことを気にしてどうする? すでに天命は下され、俺はそれに従うのみ。何が不安だ」

「あんたの『天』って、伊邪那岐じゃないのか。だとしたら、天命が覆ることだって在るかもしれないだろ。神代の記憶が戻れば、天命を授けた伊邪那岐自身がそれを覆すかもしれない」

 慎也の言葉に、建速は眉根を寄せる。

「伊邪那岐の記憶を取り戻したのか?」

「違う。記憶なんかない。思い出したくもない」

 吐き捨てるように言う慎也の様子からは、嘘を言っているようには視えなかった。

「慎也、何故そんなに怖れるのだ。俺達国津神が此処に在るのに」

「俺は怖い。いつも美咲さんを失うんじゃないかって、怖くて堪らない。ようやく出逢えたのに、やっと、俺だけのものになった筈なのに」

 初めて出会ったあの喜びを、初めて触れたあの幸福感を、今はもう思い出せない。
 腕の中に抱いていても、すぐ傍にいても、いつも奪われてしまうような喪失感に苦しくなる。

「誓ってくれ、建速。例え伊邪那岐が前世の記憶を取り戻して、神代の時のように伊邪那美を見捨てても、例え全ての神々が敵にまわっても、あんただけは、美咲さんを護るって」

「――誓おう」

 建速が慎也の前に進み出て跪く。

 神気が揺らぎ、神威が満ちる。

「奏上致す。古の約定に従いて、祖神おやがみで在らせられる男神と女神の末である建速が、御前に罷りこし、再び誓う。この命みことの全てを懸けて、女神の現身うつしみである美咲を誰からも、何からも、護ることを。許し給え」

 偽りなき誓約に、慎也は安堵するように僅かに笑った。

「許す――」

 これで美咲は安全だ。
 誰からも。
 何からも。
 眠る美咲を、慎也はただ強く、抱きしめた。





 図書準備室を出た建速に、図書館の中で待機していた国津神々が一斉に視線を向ける。

「建速様、父上様のご様子は?」

 久久能智が問う。

「変わらん。食事も取らん」

「父上様のお心が、深い悲しみが、伝わってきます」

 石楠が呟く。

「神代の時のように、悲しみでお心を病まれるのでは? お心の病んだ父上様が、恐ろしい過ちを再び繰り返すのではないか心配です」

 大山津見命が図書準備室に視線を向けた。

「伊邪那美が産んだ最後の御子である火神を殺したようにか?」

 火之迦具土――伊邪那美が神去る原因となった火神。
 神代では、伊邪那岐に首を斬られ、殺された。
 それなのに。
 妻を喪った悲しみに耐えきれず伊邪那岐が殺した神は、黄泉国においては伊邪那美と伊邪那岐を救うために顕れた。
 己を殺めた神剣と一対となって。
 これは、どんな手妻だというのか。

「伊邪那美と火之迦具土、そして伊邪那岐の間に何が起こったのだ?」

「わからぬのです。母上様は、最後の御子をこの豊葦原でお産みになりました。産屋に在らせられたのは、父上様と母上様、そして、火神だけです」

「我々が産屋の扉を開けた時、すでに母上様は神去られ、止める間もなく父上様は火神の首を斬っておしまいになられた」

「そして、父上様が握った血の滴る剣から新たな神が成ったのを視ました」

「そして、嘆く父上様を産屋から外へとお連れした後、死した火神の屍から新たな神が産まれたのを視たのです」

「死した火神の屍から、新たな神が『産まれた』だと?」

「はい。それは、真に不思議な光景でございました。火神の首を斬り、凄まじい神威を得た天之尾羽張が、火神の屍と交合っていたのでございます」

「天之尾羽張と火之迦具土の屍が――」

 黄泉国で伊邪那岐を救った炎は、神殺しの剣、天之尾羽張と一対となった。
 丁度、剣と鞘のように。
 あたかも剣と炎が交合うように。
 伊邪那岐は、怒りにまかせて火神を殺めたのではないのか。
 火神は何故、黄泉国で自分を殺めた祖神を救ったのか。

「――」

 聞きたいことが山ほどあるのに、剣も炎も今は静かに眠っている。
 伊邪那岐は神代の記憶を持たぬまま、再び伊邪那美を喪うことを怖れている。

 天命が覆る?

 そんなことが在る筈もない。
 それなのに、その怖れが、現実のものとなるような気がした。





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