高天原異聞 ~女神の言伝~

 天之安河原で思兼に見送られ、月読は豊葦原に降り立った。
 其処には、数多の采女うねめが平伏し、月神を待っていた。

「面を上げよ」

 月神の言霊に、一番前にいた女神が頭を上げた。
 その容は、落ち着いた雰囲気と美貌を兼ね備えていた。

「そなたが、大宜津比売か」

「左様にございます。月神様を我が神殿にお迎えできたことを嬉しく思います」

 大宜津比売は、國産みの際に産まれた古き神。
 穀物の神であると同時に、太陽神である天照大神に食物を捧げる保食神うけもちのかみでもあった。

「まずは、この豊葦原をご覧になり、続きまして太陽の女神を讃える神殿をご覧下さい」

「よかろう。案内あないせよ」

 大宜津比売を先導に、月神が往く。
 その後ろをたくさんの采女が付き従う。
 建速の言った通り、確かに豊葦原は美しかった。
 だが、明るすぎる昼の世界は、何処か騒々しいようにも思われた。
 自分が好むのはやはり夜の世界だ。
 太陽が沈んだ後の、穏やかなあの静謐に心惹かれる。
 青い空を流れる雲も良いが、星の瞬きをかすめる雲を眺める方が心が落ち着く。
 何処か心此処に在らずといった月神の豊葦原来訪も、日が沈む頃には神殿まで視終えて、残す処は宴のみとなった。
 宴の支度が整うまで、控えの間に通される。
 空に昇る望月を眺めながら、月神は高天原を思った。





「なんという美しい方――」

 麗しい月神の容を思い描きながら、大宜津比売は宴の準備を終える。
 粗相の無いようにもう一度確かめてから、采女を呼ぼうと宴の間を出る。

「大宜津比売」

 名を呼ばれて視線を向けると、階の向こうに天津神が立っている。

「思兼様ではございませぬか。何故豊葦原へ――」

「月神様はすでに着いたな」

「ええ。控えの間へお通し致しました。何とも麗しい御方で、精一杯おもてなしさせていただきます」

「月神様を、お慕いしておるのか」

 思兼の言霊に、大宜津比売が頬を染める。

「あのように麗しい御方を慕わずにはいられましょうか」

「ならばこれを」

 思兼が懐から小さな巾着を取り出す。

「この薬を酒に混ぜよ」

「これは……?」

「これを飲めば、どうあっても交合いたくなる。交合ってしまえば、そなたを妻とするしかなくなるであろう。ともに飲んで、楽しめばよい」

「まあ……」

 頬を染める大宜津比売に、思兼は巾着を差し出す。

「月神様は情の深い御方だ。一夜をともにした相手を無下に扱うことはない。それに、そなたは美しい。最初は戸惑っても、ともに暮らせばすぐにうち解けよう」

「……」

 思兼の言霊に、大宜津比売の心は揺らぐ。

 あの美しい方の妻となれる。

「迷うことはない。似合いの対だ」

 思兼のさらなる言霊に、大宜津比売は震える手で巾着を取った。




「天照様、日が落ちます」

「ようやく織り上がった。今日は終わるとしよう」

 機織り小屋で、最後の仕上げをし終わった天照が顔を上げる。
 すでに織女は自分が織り上げた布を綺麗に畳み終え、美しい櫃にしまっていた。
 天照の織り上げた布を手際よく畳むと、それもまた櫃に納める。

「織女、そなたの織る神御衣かむみそは真に素晴らしい」

「有難き幸せにございます」

 平伏す織女が、躊躇うように言霊をかける。

「あ、天照様――」

「どうした、織女」

「あ、あの、神御衣を織るお役目、そろそろ私ではなく他の者でもよろしいのでは……」

「何を言うのだ、織女。そなたほど美しい布を織る者を、私は他に知らぬ」

 平伏す織女の両手を取って、天照は織女に微笑む。

「美しい機を織るこの手もさることながら、そなたのその奥ゆかしい心根も気に入りなのだ。私とともに、これからも機織りを楽しんでくれ」

「……私如きに、そのような言霊、勿体のうございます」

「明日からはまた、私のために新しい布を織ってくれ。私は暫くこの布で御衣みけしを縫わねばならぬ」

「天照様、御自ら御衣を縫われるのでございますか?」

「ああ。今宵はそなたも戻ってゆっくり休むがいい」

「私は、此処を片付けてから戻ります。どうぞお先に」

「わかった」

 土間に控えていた采女が櫃を受け取る。
 天照が機織り小屋を出て往くと、織女は大きく溜息をついた。
 神御衣かむみそを織るお役目を、またお断りできなかった。
 明日からまた新たな神御衣を織らねばならない。
 どうしたらいいのだろう。
 悩む織女の耳に、突然の雨音が響く。
 驚いて窓を視るも、満月の月明かりが皓々と視える。

「荒ぶる神が、お近くに……?」

 織女は土間におり、慌てて閂を掛けた。
 雨戸も閉める。
 この機織り小屋は女神しか入れぬ決まり。
 だが、噂を聞けば荒ぶる神は高天原の決まりを守らぬ方だと言う。
 織女は真っ暗になった機織り小屋の中央に座する柱の傍に座り込み、気配を殺して荒ぶる神が去るのを待った。
 雨風はいよいよ激しくなり、屋根の上で激しい破壊音がした。
 織女は雷が落ちたのかと、恐る恐る顔を上げ、天井を視た。
 其処には、大きな穴が開き、金と赤の斑の瞳と織女の驚きに見開かれた瞳が目合った。

「ああ……」

 天井の穴から、上衣を纏わぬ男神が飛び降りてきた。
 織女は驚きで座り込んだまま後退る。
 だが、背中が柱にぶつかり、これ以上は下がれない。

「ふ、斑駒様……何故……」

「織女、今宵、此処で、そなたは死ぬのだ」

 驚きで動けない織女の足首を掴み、引き倒す。

「ああっ!!」

 抗う間もなくのしかかられ、両腕が濡れた帯に戒められ、柱に括り付けられる。
 次は、織女のしていた帯が解かれ、悲鳴が上げられぬよう口元を縛られる。
 雨風は、すでに止んでいた。
 天井に開いた大きな穴から月明かりだけが入り込む。

 逃れられない。

 織女は悟った。

――ああ。今宵、私は死ぬのだわ。『死』が私を掴まえたのだから。

 身体にかかる重み。
 諦めと同時に、どこか甘美な喜びが心の内に沸き上がった。





 身体が熱い。
 飲み過ぎたせいで、身体が動かない。
 神威も、使えなかった。
 朦朧とした意識の中、誰かが触れているのだけはわかった。
 胸紐が解かれ、露わになった素肌に触れる指の感触が心地良い。
 その指が、どんどん下に下がり、褌はかまの上から両脚の付け根を探られる。

「ああ……」

 吐息が乱れる。
 初めて触れられる心地良さに、すぐにそこは熱く固くなった。
 何度も探られる間に褌はかまの帯が解かれ、そそり立つ物根ものざねが剥き出しにされる。
 さすがに、その頃には月神にも何かがおかしいと朦朧とする意識の中で感じた。

「……やめよ……誰だ……」

 重い瞼を開けると、霞む視界の中、自分の脚の上に跨り、脚の付け根に顔を埋めていく女神の頭が視えた。

「……あ、あぁ――っ!!」

 熱く濡れた口内に男根を呑み込まれ、激しく喘ぐ。

「やめよ……ぅ、あぁ……触れるな……姉上、姉上……!!」

「私を、姉君とお思いになって下さいませ」

「……姉上……? ……あぁ……」

 甘く責め苛まれ、逃れられない。
 朦朧とする意識の中、月神には、自分にのしかかってくる重みが誰なのかわからなくなった。





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