高天原異聞 ~女神の言伝~
9 壊れた心
暗闇の世界に取り残された豊葦原。
荒ぶる神と国津神の創り出した、今や最後の神域とも言える結界の中で、荒ぶる神は独り夜空を眺めていた。
「建速様」
天之葺根の呼びかけに、荒ぶる神が振り返る。
天津神である葺根と人でありながら神威を有する八塚が、図書館の一般来客用玄関から此方に向かって歩いてくる。
「葺根、八塚」
「如何《いかが》なされました? よもや結界の外に異変でも?」
「そうではない。空を視ていた。太陽が、恋しくてな」
見上げた空には、本来在る筈の太陽がない。
夜空に在るべき月もない。
「確かに、こう夜が続くと妙な心地です。何やら夜通し遊んでいた若い頃を思い出すというか」
八塚の言葉に、荒ぶる神は小さく咲った。
「大人になったな。八塚」
「年を重ねて、私もだいぶ丸くなりました」
さらりと返す八塚に、葺根も咲う。
「ところで葺根、結界の外はどうだ?」
「変わりはありませぬ。眠りに就いたままの青人草もそのままでございます」
「黄泉神の動きもないか」
「何も感じませんでした」
「そうか――引き続き様子を窺うのだ。何か動きがあればすぐに伝えよ」
「御意に」
「黄泉大神に動きがないのは何故でしょうか」
八塚が呟く。
「伊邪那美様が眠っておられるのも、かの神の仕業ですか?」
「そうではないだろう。美咲からは闇の気配も、死の気配も感じられない。護りの勾玉も神威を発動しない。危険はない筈。
闇の主は、黄泉国と豊葦原の領界を重ねるために、八島士奴美を使って黄泉の源泉まで呼び寄せたのだ。次の策にしては控えめすぎる。朔の日を狙ったように、何かを待っているのか、新たな死神を呼び寄せているのか――」
「新たな死神が顕れる可能性も在ると――?」
「或いは、天津神を狙うか――どれも起こり得る」
「黄泉大神の神威とは、それ程なのですか?」
「我らが祖神よりも古き神だ。仕方あるまい」
だが、これほどに闇の神威が強いとは、荒ぶる神も思っていなかった。
夜になっても出ない月。
あまりに強すぎる闇の神威。
まさか、黄泉大神は月読命まで捕らえたのだろうか。
変若水の力を得たのなら、死の神威が生の神威を超え、領界が重なったままなのも頷ける。
心弱き月神が言霊を巧みに操る闇の主に惑わされてもおかしくはない。
高天原へ戻れると唆されたら、容易く信じてしまう程に。
「葺根、俺と月読が神逐《かむやら》いされた後、夜の食国へ天照は訪《おと》なったか?」
「いえ。私が豊葦原に降るまで、天照様が月の御方を訪なったことはございませぬ。夜の食国へ到る路筋は閉ざされ、天津神の神威では探しだすことが出来ぬようにされておりましたから」
では、月読と闇の主の接点は一つ――月読が、根の堅州国に顕れたあの時だ。
「よもや、月神様も闇の主の手に堕ちたとお考えですか?」
「月が出ないからな。その可能性もある。だが、そうであってもどうにもならぬ」
そして、今は月読や美咲よりも慎也の方が心配だった。
記憶がないのに、何故あのように脅えるのか。
伊邪那美の記憶が戻るのが『最後の刻《とき》』ならば、伊邪那岐もまた同じなのか。
瓊瓊杵と咲耶比売がいれば、祖神について何かしら聞けたものを今となってはそれも叶わない。
ふと、太陽の女神が降りし時に、慎也に向けて放った言霊を思い出す。
天照は、伊邪那岐の記憶が戻るのはそう遠くないと言った。
天照もまた頑なに伊邪那岐を求め、伊邪那美を拒むのは、何か理由があるからなのか。
わからぬ事が多すぎる。
「――」
荒ぶる神は再び空を仰ぐ。
だがやはり其処には、太陽はなかった。