高天原異聞 ~女神の言伝~

 太陽の宮の自室へ戻ると、天照はその場に頽《くずお》れた。

「――」

 自分が視たものが信じられなかった。
 三貴神である月読の異変を感じて月の宮へ急げば、月読を抱いて部屋へ入る建速の後ろ姿が視えた。
 そして、扉の向こうから聞こえてきた衣擦れの音と艶めかしい喘ぎ声。
 建速と月読が、交合っている。
 神威を使って覗き視れば、褥の中で身体を重ね、深く唇を重ねている月神と荒ぶる神。
 それ以上は、耐えられなかった。
 天照は逃げるようにその場を離れた。
 誰にも見咎められずに部屋に戻りはしたが、心が悲鳴をあげていた。
 月神と荒ぶる神の裏切りに、何故という言霊しか思い浮かばない。
 どれくらいそうしていたのか。

「天照様、思兼様がお出でです」

 やがて、采女の声が控えめに届く。

「思兼――何用か問え」

「至急お知らせせねばならぬ事があり、罷りこしました」

 采女でなく、思兼の言霊が続く。

「入るな」

「天照様?」

「そこで申せ」

「は、では――」

 采女を下がらせた後の思兼の言霊に、

「織女が――?」

 太陽の女神の中で、何かが壊れた。





 荒ぶる神と月神が、太陽の女神が天之岩屋戸に籠もったのを知ったのは丸一日経ってからだった。
 その頃には、ようやく月神の身体も男神のものに戻っていた。
 だが、奪われた陽の神気はそれだけでは到底足りなかった。

「建速、姉上を喚び戻すのだ。高天原までが闇に包まれれば、領界の陰陽の調和が崩れる」

「そなたは大丈夫か?」

「姿が戻れば何とかなる。往け」

 建速が神威を使って姿を消した。
 天の岩屋戸の前には数多の天津神々が控え、太陽の女神が姿を顕すのを待っている。
 闇に包まれた高天原は、いつものような夜ではなく、陰の神気に覆われていた。
 建速が傍にいなくなったことで、月読の身体は、また息苦しさと倦怠感に襲われる。
 陰の神気が強すぎる――月読の身体が、自室に戻らねばとじりじりと後退る。
 だが、そんな月読に、背後から言霊がかかる。

「月読様――?」

 驚いて振り返れば、そこに思兼の姿が在る。

「思兼――」

「どうなされたのです? 豊葦原から戻られて以来、お加減が優れぬご様子」

「そのようなことはない――」

「ならば良いのですが。天照様がこのままお出ましにならねば、月読様に高天原の統治をお願いせねばなりませぬ」

「私が――?」

「ええ。天照様の対である月読様にしか出来ぬことでございます」

「それはならぬ!」

 思いがけず出た強い言霊に、思兼は訝しそうに月読を視た。

「月読様?」

「何としても姉上には天の岩屋戸から出てもらわねばならぬ。思兼、姉上を喚び戻すために何をしても良い。手段を選ぶな」

「私が執り行ってもよろしいのですか。そのような大事は、月読様に――」

「否。私が許す。そなたが取り仕切れ」

 陰の神気に満たされた空間では、身の内に陽の神気がほとんど無い月神に出来ることはない。
 下手をすればまた女体になってしまう。
 それを天津神達に知られるのは避けたかった。

「今すぐ取りかかれ、急ぐのだ」

「御意に」

 この場を離れなくては――月読は思兼を通り過ぎて天の岩屋戸から離れた。





 言い捨てるように言霊を告げて通り過ぎていく月神を、思兼はうっすらと嗤いながら視ていた。
 それから視線を戻すと、閉じられた天の岩屋戸と傍で不安げに控える天津神達の後ろ姿が視える。
 その中から、二柱の男神が此方に向かってくるのが視えた。

「思兼殿」

 思兼を呼んだのは、神直毘と大直毘の兄弟神であった。
 創世神である伊邪那岐命が黄泉国から返った際の禊で成った神々の内の二柱だ。
 禍事を吉事に変える神々。
 その容は今は憂いを帯びてはいるが、涼やかで優しげであった。

「神直毘様、大直毘様、どうなされました。高天原にお出でになるとは」

 思兼は一礼する。

「豊葦原までが闇に閉ざされ、一向に朝が来ぬもので私達は国津神々の名代として参った」

「豊葦原と対である高天原に禍事が在るなら、我らの神威が要るのではと思ってな」

 その言霊に、思兼は嬉しそうに咲った。

「――それはそれは。私もたった今、月神様よりお役目を賜った処。お二方にもお救け頂きたき事が」

「おお。何でも言ってくれ」

「我らに出来ることが在れば何でも」

「実は、天照様が天の岩屋戸に籠もられたことで、高天原の秩序も乱れております。この事態を収拾するべく、月神様をお呼び致しましたが、どうやら月神様はお加減が優れぬご様子。どうかお二方には、お傍で月神様を御護りして頂きたいのです」

「月読様が?」

「お加減が優れぬとは?」

「対である太陽の女神がお隠れになったことで、陰陽の調和が崩れております。恐らく陽の神気が足りぬのでしょう。どうぞ、お二方がお傍で離れず神気を満たして下さいませ。禍事を返すお二方の神威でなければ出来ぬこと」

「三貴神で在らせられる月読様にそのような禍事が――」

「何とおいたわしい――」

「私がこのように申したなどとは、月神様にはご内密に。太陽の女神がお隠れの今、ご自身のことなど省みずに、気丈に振る舞っておいでです。無理をなされば月神様も喪われてしまいます。それだけは避けねば」

「我らに任せよ」

「月読様は我らがお救けしよう」

 神直毘と大直毘は大きく頷くと思兼に言われるまま、月神を追った。





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