高天原異聞 ~女神の言伝~

10 女神の死


 絶望の中、自分は産まれた。
 愛しい者を奪われた慟哭が、狂乱が、自分の命《みこと》だった。
 狂気と渇望を具現した自分は、あらゆるものを滅ぼす稀神となった。
 祖神の命を受け継ぎながら天に昇ることも出来ず、誰ともともに在れる事もなく。
 孤独の内に、静かに正気を失った祖神を、愛しく憐れに思う。
 その孤独を癒したかった。
 引き裂かれた命を、取り戻してやりたいと。

――悔いはないのか。

――在る筈もございませぬ。

 痛みすらなかった。
 この身を捧げて望みが叶うなら、現身《うつしみ》など何度捨て去っても構わない。

――許せ……

 女陰を貫く美しい剣が、この交合いが、新たな神々を産む。
 八百万の神々よ。
 私こそを、お許し下さい。
 我が身が産まれし故に、最も大切な命《みこと》を奪ってしまったことを。
 最も尊き祖神に、絶望のみを与えしことを。
 それでも。
 御護り致します。
 現身《うつしみ》を喪おうとも。
 我々の命の源を、何処までも、何時までも。
 たとえ、永劫に近い刻《とき》を費やそうとも――





 建速が一太刀で落とした大宜津比売の首が転がった。
 そのあまりの速さに、身体は未だ立ちつくしていた。

「――」

「どうだ。これでもう、そなたを脅かす者はいなくなった」

「……りぬ」

「?」

「足りぬ――一太刀で済ませるなど、到底足りぬ」

 建速の手から、神殺しの剣を奪うなり、月読命《つくよみのみこと》は、残された大宜津比売の身体を切り裂いた。
 大宜津比売の身体から、まず左腕が落ちた。
 続いて、右腕が。

「月読――」

 泣きながら、月読は大宜津比売の身体を切り刻んだ。
 建速が止めるまで。

「もうよせ、月読。もう十分だ」

 剣を取り、建速は月読を抱き寄せた。
 血の気のない容にも、衣にも、血飛沫が飛び散り、血塗れだった。

「神殺しの剣で切り裂いた。もう、大宜津は黄泉返らない」

「ああ。そうだ。もう、お前を傷つける者はいない」

 血にまみれてもなお、月神は美しかった。

「建速、高天原に還ろう。こんな処にはいたくない。高天原に、還りたい」

 幼子のように、月神が建速に縋り付く。

「ああ。連れていってやる」

 荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
 瞬く間に二柱の神は豊葦原から高天原へと還り着く。
 太陽の宮の対に当たる月の宮の前庭に降り立つと、其処には思兼を筆頭とする数多の天津神々が在った。

「――」

 待ち構えていた思兼命の言霊が響く。

「建速様、月読様、これは大罪ですぞ。この高天原に、死の穢れを持ち込むとは――」

「思兼――」

「月の御方様をお連れせよ」

 天之宇受売をはじめとする采女達が躊躇いがちに進み出てきた。

「何処へ連れていくつもりだ」

「禊に。死の穢れを払わねばなりませぬ」

 天之宇受売がさらに進み出で、月読の手を取る。
 月読命《つくよみのみこと》は抗うことなく、宇受売についていった。

「傷一つつけるな。違えれば、さらなる穢れを持ち込むことになるぞ」

 荒ぶる神の言霊と鋭い一瞥に、その場にいた神々は皆恐れ慄《おのの》いた。

「月の御方様のことはご心配あそばしますな。建速様はこちらへ」

 思兼が建速を促す。

「何処へ連れて往こうというのだ」

「罪の裁可が下るまで、天之岩屋戸に留まりいただく」





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