高天原異聞 ~女神の言伝~
大広間では、八百万の神々が喧々囂々と論じ合っている。
だが、太陽の女神はつまらなそうにそれを眺めているだけだった。
「天照様、御裁可を」
思兼が近くに寄ってそう告げる。
「私の話を聞く気があるのか。皆好き勝手に論じておろうが」
その冷たい言霊に、天津神々が一斉に静まり返る。
「そなた達が論じる必要はない。すでに私は告げた。月読は夜の食国へ。建速は豊葦原へ。それで高天原の秩序は保たれる。私の裁可に文句があるなら、高天原はそなた達が治めるがいい」
「天照様、そのような――」
「神逐《かむやら》いだけでは、そなた達は満足せぬのか。我らは三貴神ぞ!!」
太陽の女神の怒りが、大気を震わす。
その怒りに、高天原が揺れる。
「お怒りをお鎮め下さい、天照様!」
「どうか、御慈悲を」
天津神々が一斉に平伏す。
「明日には、月読も建速も高天原を去るのだ。それ以上私は何も言わぬ」
「仰せの通りに」
「我らが差し出がましく口を開いたことをお許し下さい」
「ならば疾く去れ。話すことはもう無い」
脅えた天津神々が先を急いで大広間を出て往く。
思兼が独り残ったが、太陽の女神の言霊は冷たく響く。
「建速は、何処にいる」
「は、天の岩屋戸に」
「出してやれ」
「ですが――」
目も合わせずにいると、思兼はそのまま諦めて出て往った。
太陽の女神は、自らも大広間を出て、自室に戻る。
思った通り、程なくして天の岩屋戸から出された荒ぶる神がやって来る。
「望んだ通り、明日には豊葦原への追放だ」
「そうか」
荒ぶる神は、静かだった。
取り乱してでもいれば、慈悲を施すことも出来ように。
「聞きたいことは、他にはないのか」
「月読はどうした?」
その言霊に、かっとなる。
「月読は、夜の食国への神逐《かむやら》いだ。そなた達は禁忌を犯したのだ。高天原に死の穢れを持ち込むなど、在ってはならぬことなのに――」
平気で、その禁忌を犯した。
後ろめたさが残る。
そんなに、大宜津比売を娶るのが嫌だったのか。
あの時、もっと話を聞いてやれば良かったのか。
心優しい月神が、何故、女神を殺すなど恐ろしい罪を犯したのかどうしてもわからなかった。
「時折は訪《おと》なってやれ。月読は、心弱いからな」
「――」
「天照、明日には神逐《かむやら》いされるなら、高天原での最後の時はお前と過ごしたい」
さらりと言われて、何故か心は一層苦しくなる。
「嫌な男よ――」
神逐《かむやら》いされることを、何ほどのこととも思わぬくせに。
それなのに、自分だけが、未練がましく言霊を待っている。
「天照」
引き寄せられてくちづけられれば、もう拒めない。
荒々しく扱われても、応えてしまう。
どうして、自分を抱くくせに、月読まで欲するのか。
どうして、高天原ではなく、豊葦原を選ぶのか。
聞きたいことが溢れているのに、口に出すことが出来ないのは、自分を振り回すだけの男の心を読めないからだ。
結局、自分は愛されないのだ。
父上様も、建速も、月読も、自分を必要とせずに捨て去る。
それが、苦しくて、辛くて、こんなにも自分を歪めていくのに、どうすることも出来ない――
「――」
哀しい余韻に、美咲は胸が痛んだ。
最後に見えたのは、神逐《かむやら》いされる建速と月読命。
それを視つめる太陽の女神の後ろ姿。
引き離された三貴神は、そうして独り異なる領界に留まることとなる。
なんという永い刻《とき》。
なんという孤独。
目の前の月神は、憐れだった。
それを、月神自身もわかっていた。
「母上様――とても、寂しいのです。心を寄せても、相手は返してくれぬばかり。待つことも、断ち切ることも出来ずに、とても苦しい」
月神の零した涙が、美咲の手に落ちた。
魂のみの姿で受け止めた変若水《おちみず》が衝撃となって美咲の意識を跳ばした。
その時、口に出た言葉は、美咲のものではなかった。
――愛し子よ……何と憐れな……
その声音は、言葉ではない言霊は、三貴神を現象させる元となった太古の女神のものだった。
太古の女神の容から、美しい涙が零れた。
慈愛に溢れたその眼差し。
抱きしめる腕の温かさ。
月神にも、そのことがわかった。
「……母上様、ようやく……」
母神の胸に抱かれて、月神は涙を流し続けた。
引き離された三貴神の過去を、闇の主もまた思兼命の夢を通じて知った。
「――そなたは、太陽の女神を、月神にも、荒ぶる神にも渡したくないのだな」
夢を覗かれたことを訝しみもせず、思兼は未だ神代の夢に囚われていた。
「そうだ。太陽の女神は、高天原の天津神のもの! 誰にも渡せぬ!!」
だからこそ、月神を豊葦原へ往かせた。
大宜津比売や神直毘と大直毘の兄弟神を唆すのは簡単すぎた。
その後、月神とともに荒ぶる神までが大宜津比売を殺したのは、思兼にとっては願ってもないことだった。
「だが、女神の対は、そなたではないし、永遠に対にはなれぬ」
「それがどうした。我がものにならずともよい。天に在っては唯一の御方だ。永遠に、そうで在ればよいのだ!!」
闇の主の手が、思兼の目の前で一振りされる。
途端に、思兼は意識を失い、その場に頽れた。
闇の主は、暫しそれを視つめたが、
「唯独りで在ればよい、か――どうだ。太陽の女神よ」
美しい笑みを湛えて、容を上げた。
「――」
闇に在っても美しく光り輝く女神は、虚空に佇み、厳しい眼差しで闇の主を視ていた。
「本来ならば分かち難き三貴神の絆を、こうも容易く断ち切るとは。思兼とやらは、真に策士だな」
「――」
「我の言霊に、偽りはなかったであろう? これで、少しはこちらの話に耳を傾ける心持ちになったか?」
「――そなたは、母上様が欲しいのであろう」
「そして、御身は、伊邪那岐が欲しいのであろう。神逐《かむやら》いを解けば、三貴神が再び高天原に君臨することも叶う。全ては元に戻るのだ」
「――」
「還りたいと思わぬのか」
「――」
太陽の女神の容は、全く変わらなかった。
だが、闇の主にはわかっていた。
その沈黙こそが、言霊よりも雄弁に女神の心を伝えていたのだ。
失ったもの全てを取り戻したいと、神代へ還りたいと。
「そなたは、ただ視ているだけでいい。伊邪那美は死の女神。豊葦原に永くは留まれぬ定め」
「ただ視ていたら、私の豊葦原は、闇の領界と重なった」
「伊邪那美が黄泉国に返れば、豊葦原と黄泉国も元に返る。我は豊葦原を欲しはせぬ。我ら黄泉神は黄泉国でしか生きられぬ定め故に」
「要らぬ死神や死人をつくらぬであろうな」
「そのようなこと、するはずがない。我は、死の女神を取り戻したいだけ。だが、そのために無用な死神や死人はつくらぬ。それは、理に叛くことだからな」
「理を、そなたが説くのか?」
「高天原に理があるように、黄泉国にも理がある。死の理に叛いた者を導き、正すのが我の役目。死を知らぬ御身には、わからぬであろうがな」
「わからずともよい」
その言い様は、己が想いにのみ囚われた思兼命を思わせた。
所詮、神々も同じ。
己の視たいものしか視ようとはせぬし、聴きたいことしか聴かぬ。
「では、暫し我らが動くのを、天津神々には静観していただこう――」
「――」
沈黙の後、太陽の女神は俄に姿を消した。
「九十九神」
呟きとともに、闇が蠢いた。
――お呼びですか
「時が来た。往け」
――御意に
瞬く間に九十九神の気配も消える。
残ったのは、闇の主と意識のない思兼のみ。
「――」
ふと気づけば、空を見上げるのはすでに習いとなってしまったようだ。
其処に在るはずのない月を捜して、闇の主は息をつく。