高天原異聞 ~女神の言伝~

 気が付けば、美咲は闇の中にいた。
 さっきまで月神とともにいたのに、月神の涙が触れた途端、意識が跳ばされたのだ。
 もともと意識だけだったのに、今の美咲はただの死人のように存在が希薄で心許ない。
 まるで女神の自分と、黄泉返った記憶のない美咲とに分かたれてしまったかのように。
 その証拠に、意識となっても首にきちんとかかっていた勾玉が、今はなかった。

「ここは、どこなの……?」

 辺りを見回しても闇ばかり。自分の姿だけは見えるが、それ以外に何も見えない。
 一人きりで、もう跳ぶこともできずに、立ち尽くすしかなかった。

――母上様……

 誰かが、自分を呼んでいる。
 その言霊の響きを、美咲は知っていた。

「咲耶比売……?」

――お戻り下さいませ。此処は死の領域。留まれば、現身《うつしみ》が喪われてしまいます

 闇の中にその姿を探しても、そこに咲耶比売の姿はない。

「咲耶比売、どこに行けばいいの? どうすれば、ここから出られるの?」

――歩き続けて下さい。留まってはなりませぬ。やがて、光が視えるでしょう

 美咲は促されて動き出した。

「光なんて見えないわ……」

――いいえ。もう、ともに歩むことは出来ませんが、必ず、現世の光が顕れるでしょう

 咲耶比売の言霊が小さくなったような気がした。

「咲耶比売、瓊瓊杵様と一緒にいるの? もう哀しくはない?」

――はい。死の領域にあろうとも、私は幸せです。愛しい方と、もう離れることはありませぬ故

「よかった……」

――母上様も、お戻り下さいませ。父上様が、待っておられます

 そうだ。
 慎也が待っている。
 建速も、国津神々もいる。
 帰らなくては。

 その時、背後で嫌な気配がした。

「!?」

 振り返ると、闇の中に蠢く影がある。
 切羽詰まったような咲耶比売の言霊。

――母上様、お逃げ下さい。九十九神です

「――!!」

 咲耶比売に答える前に、美咲は駆け出した。
 影が追ってくる気配がした。





「建速様」

 図書館内に戻った荒ぶる神に、次に声をかけてきたのは大山津見命だった。

「闇山津見に、闇の領界を探らせました」

「何か妙な動きでも?」

「妙と言うより、有り得ぬ事が」

「有り得ぬ事?」

「闇の主と太陽の女神が、闇の領界に会していたと」

「天照と、黄泉大神が――? 月読ではなく?」

「は、確かに太陽の女神であったと。思兼命もともにあったとか。よもや、母上様を黄泉国に返すために、手を結んだのでは」

「――そうであっても、我らは変わらぬ。母神を護るのみ」

「天に叛かれるのですか。本来、高天原は貴方様の――」

「我の天は、高天原に非ず。豊葦原に降り、母神を黄泉国より取り戻す。その為に、我は在る。それが、天命であったのだから」

 揺るぎない意志に、大山津見命は息をついた。

「――我ら国津神が目覚めたのも、天命でございましょう。神代では為す術もなく喪われた母上様を、今生では必ず御護り致します」

 突如、大気を裂くように神威が満ちた。

「!?」

 荒ぶる神の目前の空間が揺らぐ。
 差し伸べられた手の前に、揺らめく神気と、真紅に輝く炎を湛えて、その剣は顕れた。

「天之尾羽張――」

 神殺しの剣が、今一度、自らの意志で現世に顕現する――







 美咲は走った。
 振り返らずに、ただひたすら。
 どこまでも追いかけてくる九十九神の気配。
 幸いなのは、意識のみのせいか走り続けても疲れないことだけだった。
 迫ってくる恐怖は消えないが、美咲はとにかく走り続けた。
 もう咲耶比売の言霊も聞こえない。
 走り続けて、ようやく目の前にうっすらとした光が見えた。

「!!」

 あれが、現世の光だ。
 美咲は少しでもその光に近づこうと思い切り足を動かした。
 だが、九十九神の方が速かった。
 闇の固まりである九十九神が美咲の脚に絡みついた。

「いやぁ!!」

 意識のみの美咲の身体を、九十九神が絡め取る。
 まず、腕が押さえ付けられた。
 続いて、両脚が。
 蠢く闇の触手が、美咲の身体を這い回る。

「いやあ、やめてっ」

 嫌悪と恐怖で悲鳴をあげる美咲の口に触手が入り込む。
 喉の奥に何かが流し込まれた。
 吐き出したいのに出来ずに、美咲はそれを呑み込まされた。
 何度も嚥下させられ、ようやく触手が離れる。
 美咲は自由になった指を、喉の奥に入れ、呑み込まされたものを吐き出した。
 だが、全てを吐き出せるわけもなく、苦しさに涙が零れても、喉の奥に指を入れて何度も嘔吐《えづ》く。

 黄泉戸契《よもつへぐい》――黄泉のものを口にしては、現世には戻れない。

 それが、頭をよぎった。
 何を飲まされたのかもわからない。
 ただの水のようにも思えたが、そうであるはずもない。
 身体が痺れるように震えだした。

――母上様。ようやく誓約が果たされる刻《とき》が参りました

――さあ、我らとともに、黄泉国へ返るのです

――対の命である主様がお待ちです

 意識の集合体である九十九神が話しかけてくる。
 震えて動けない美咲の身体を持ち上げた。

「……いや……」

 抗おうにも優しく包み込まれて動けない。
 向かっていた光から遠ざかっていく――

 その時。

 激しい熱と光が、真っ直ぐに美咲に向かってきた。
 美咲を持ち上げた九十九神を貫き、美咲から引き剥がす。
 真紅の炎が、美咲を取り囲む。

――穢らわしい九十九神如きが、母上様に触れるな!!

 業火が、九十九神を取り囲み、包み込んだ。
 硝子を劈くような響きが九十九神から発せられ、闇を震わせる。
 瞬く間に業火に焼かれ、九十九神の半分は逃げ去った。
 動けない美咲は、横たわったままそれを見ていた。
 美しく輝く炎。
 血のような赤。
 だが、それは遠呂知《おろち》の瞳とは違っていた。
 もっと暖かく、美咲を思う心が伝わってくる。
 心の何処かが、懐かしさと愛しさで溢れた。

 誰なの?

 心の中で問いかける。
 だが、それが美咲の最後の記憶だった。
 限界が来て、美咲は意識を保てない。

 死に穢された。
 もう、戻れない。

 美咲の意識は、そのまま途絶えた。





 突如顕れた神剣から、揺らめく炎が図書準備室に向かって往った。

「美咲の処か!?」

 荒ぶる神が準備室へ向かう。
 だが、その前に久久能智と石楠が飛び出してきた。

「建速様!!」

「母上様が!!」

「何事だ!?」

 駆け寄った荒ぶる神の前に、石楠と久久能智が頽れる。

「母上様の鼓動が、止まりました――」

「呼吸もです――」






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