高天原異聞 ~女神の言伝~
 己の宮の中庭に降り立った時、太陽の女神はそこに天之宇受売命を視た。

「宇受売――」

「禊ぎを。闇の穢れは、尊き御身には似合いませぬ」

 巫女神が先導し、太陽の女神は従う。
 禊ぎの間には、宇受売以外の采女は誰もいなかった。
 女神の髪を飾る装飾品を、宇受売が背後から手際よく抜き取る。
 結い紐が全て解かれれば、艶やかで美しい髪が床に零れる。

「采女達は皆下がらせました。全て宇受売が致します」

「神代のままにか?」

「はい」

 宇受売は上衣の薄衣を引き下ろすと太陽の女神の御前に跪き、帯を解く。
 帯が落ちると、裳が続く。
 一糸も纏わぬ美しい肌が露わになると、太陽の女神が静かに進み出でて翡翠の階を降りていく。
 清水に身を浸せば、天津神にとっての穢れは瞬く間に消えていく。
 闇に身を曝せば、その分負担がかかる。
 所詮光と闇、生と死は相容れぬものなのだ。
 だからこそ、黄泉大神は死の女神となった伊邪那美を求めるのであろう。
 生き神であれば、あの強大な死の神威を前に平静で在ることすら難しいのだから。

「――」

 物思いを振り切るように、一度頭まで深く身を沈める。
 それから、太陽の女神は翡翠の階を登っていく。
 滴る水は、抑えきれぬ女神の神威によって、歩を進める事に蒸発する。
 階が終わる板の間には、宇受売が新たな衣を手に待っていた。
 慣れた手つきで、宇受売は太陽の女神を着付けていく。
 その動きは、隔てていた時の流れなど感じさせぬように流暢だった。
 着付けが終わると、太陽の女神は鏡の前に座らされ、今度は髪結いが始まる。
 その優しい感触に、太陽の女神は目を閉じる。
 全てが仕上がると、宇受売は鏡を持ち上げる。

「出来ました」

 宇受売の満足げな言霊に目を開けると、其処には美しい容が視える。

「私は、変わらぬか」

「ええ。神代で最後にお世話したときと、何ら変わりなくお美しいままです」

「神代のままか――」

 そこで、太陽の女神は美しい唇を歪めて咲った。
 神代のまま。
 確かに、なんの変化もない姿が在る。
 だが、心の内はどうだろう。
 思兼に乞われるまま高天原の秩序を護ってきたが、それに何の意味があったというのか。
 目覚めても、神々は変わらぬ。
 神代のままに、ただ在るがままで変えようとも思わぬ。
 何もかもが、時の流れとともに大きく変わってしまったのに、自分だけが、三貴神である月読とも建速ともともに在れぬままだ。
 そして、闇の主の言霊に未だに心惑わされている。

「――」

 太陽の女神の細い指先が鏡に触れる。
 すると、鏡は墨のように黒く塗りつぶされた。

「天照様、これは――」

「現世の様子だ。見よ、建速、伊邪那美。己が約定を果たさぬゆえの崩壊じゃ。父上様の護ってきた結界が崩れる。私の豊葦原が、黄泉国となる――」

 宇受売は鏡を覗き込んだまま動けずにいる。

「宇受売、そなたも豊葦原に戻りたいか」

 その言霊に、宇受売は我に返る。

「いいえ。天照様。宇受売はもう何処へも往きませぬ。ずっと天照様のお傍におります」

 その言霊を待ち望んでいたのに、何処か虚ろに響く。

「そなたの言霊に偽りはないのに、何故私は信じられぬのだろう」

「天照様――」

 抑え付けていた思いを、今は抑えきれない。

「宇受売、全てを元に戻したいと私が言ったなら、そなたは嗤うか?」

 太陽の女神の言霊に、宇受売は暫し沈黙した。

「――いいえ。きっと、誰もが思うのでしょう。幸せであった時が短ければ短いほど。永ければ永い故に。幸せとは、過ぎ去ってしまうほどに思い募るものですから」

「過ぎ去るほどに募る――そのようだな……」

 過ぎ去り、遠ざかってしまった時が幸せだったからこそ。
 二柱の女神が、静かに物思いに耽る――





< 381 / 399 >

この作品をシェア

pagetop