高天原異聞 ~女神の言伝~
 図書準備室に飛び込んだ建速は、葺根と八塚に押さえられながらも暴れる慎也を視た。

「父上様、なりませぬ!!」

「放せ!! 邪魔するな!!」

 両手首を左右から押さえ付けられた慎也の手には、カッターが握られている。

「何事だ!!」

 荒ぶる神の鋭い言霊が、視線を集める。

「建速様、父上様を止めて下さい!!」

 建速を射殺すように睨みつけながら、慎也が叫ぶ。

「戻ってくるって言ったじゃないか!! それなのに――!!」

 進み出た建速が、手を伸ばして慎也の持つカッターの刃を握りしめた。

「!?」

「建速様!!」

 慎也の身体が大きく震えた。
 だが、握りしめた大きな手から、血が滴り落ちるのを見て、それ以上の動きを止めた。

「それなのに、どうした?」

 建速の言霊に、責める響きはなかった。
 ただ、静かに問うた。

「――」

「自らを傷つけ、死んで追いかけるつもりか? 記憶も神威も戻らぬお前では無理だ」

 慎也の手からカッターを抜き取ると、その場に落とす。

「建速様、お手が――」

 八塚の言葉を遮るように、荒ぶる神は傷ついた手を上げた。
 手の平に大きく付いた傷から血が流れていた。
 だが。

「――」

 慎也は目を瞠った。
 血だらけの手から、傷が見る間に消えていく。
 濡れた血さえ、見る間に消える。

「傷ついても、御治《おち》が働く。だからといって、痛みがないわけではない。我ら神々も傷つけば痛みを感じる。心も、身体も」

 身体を震わせたまま動けない慎也を、建速が抱きしめる。

「美咲は戻ってくる。自分の力で戻れないなら、迎えに往く。だから、心を静めろ。お前の悲しみが、我ら国津神には一番こたえるんだ」

「――」

「我々は、お前と美咲のために此処に在る。言霊にまで誓ったのに、何故信じない」

「……建速……建速……怖いんだ……」

「怖れるな。俺達がいる」

 疲れ果てたのか、慎也は建速の腕の中でそのまま意識を失った。

「暫く眠っていればいい。起きていても、つらいだけだからな」

 祖神を抱く荒ぶる神を、国津神達は静かな涙とともに視つめるしかなかった。
 慎也の悲しみと狂気は、神代を思わせて、国津神達にはやり切れない。
 伊邪那美を喪った後、伊邪那岐は二度と豊葦原の国津神々のもとには戻ってこなかった。
 喪失とともに、静かに狂気に呑まれ、果てには、対の命を同じように喪い狂気に呑まれた瓊瓊杵命とともに神去ることとなったのだ。

 対の命を喪うと言うことは、それ程に耐え難きことなのだ。

 慎也を抱きあげると、建速は美咲が横たわったソファーの向かい側に慎也を横たえた。
 久久能智と石楠が慎也に駆け寄る。

「目が覚めるまでついていてやれ」

「はい」

 久久能智と石楠は慎也の傍らに膝をつき、久久能智が青ざめた頬にかかる髪をかき上げてやる。

「記憶がなくとも、対の命を喪った恐怖を拭い去れぬのですね」

「母上様のお傍に在るだけでお幸せそうであったのに……なんとおいたわしい――」

 石楠が慎也の手に触れながら、涙を流す。

「何があったのだ?」

 八塚と葺根に問う。

「わからぬのです。我々は、母上様を抱く父上様のお傍に控えておりました。母上様は眠っておられるだけで、闇の気配など何もありませんでした」

「突然、母上様のお身体が大きく震えたと思ったら、そのまま、息絶えておしまいになったのです」

「勾玉は? 神威も何も発動しなかったのか」

「何も。光ることさえしませんでした」

「――」

 護りに着けたはずの勾玉が、神威を発動しなかった。
 横たわる美咲の勾玉に触れるが、そこにはなんの神威も神気も感じられない。
 建速は、そのまま美咲の胸元に手を置いた。
 確かに、鼓動がない。
 美咲の命《みこと》が感じられない。
 魂が抜けたのだ。
 魂魄が内になければ、身体は死ぬ。
 女神を護る筈の水神と風神は何故動かぬのか。

「――」

 まさか、この死は、女神の意志なのか。

「美咲、戻ってこい――」

 だが、建速の言霊に、女神からの応《いら》えはない。
 死ぬはずがない。
 これが、女神の意志で在る筈がない。
 対の命を置いて、国津神々を置いて、神去る筈がないのだ。

「建速様」

 懸かる声に、建速は振り返る。
 神威によって神殺しの剣に触れることなく中空に捧げ持つ大山津見命が立っている。

「天之尾羽張の神威が、何かを訴えております」

 神殺しの剣は、大山津見の神威に押さえ付けられながらも、刀身を震わせている。
 荒ぶる神は畏れることなく剣に触れる。
 その途端、身体が炎に包まれる。

「!!」

「建速様!?」

 慌てる大山津見を、剣に触れていない手で建速は制した。

「大丈夫だ」

 炎は揺らめいているが、陽炎のように其処に在るだけで、建速を傷つけるものではなかった。

「建速様、これは、一体……」

「――」

 熱のない炎に包まれながら、荒ぶる神は死の神威に触れていた。

――建速様……

 神話《しんわ》が炎から伝わる。

「その声は、咲耶比売か?」

――建速様……母上様が死の領域に囚われました

「そのようだな。どうやら、迎えに往かねばならぬようだ」

――お急ぎ下さいませ。刻《とき》が、近づいております

「それは、最後の刻《とき》か」

――恐らくは。黄泉大神にとっても、母上様を奪う最後の機会となりましょう

「わかった。礼を言うぞ。咲耶比売」

――お気をつけ下さいませ。どうやら、母上様にも異変が

「どういう事だ」

――私にもわかりませんが、死の領域で垣間視た母上様は、神威を全く使えぬようでございました。神気もほとんど感じられず、まるで、只人のようであったのです

「神威を使えぬだと?」

――ええ。お独りでは、死の領域を出ることは出来ぬでしょう

 その時。

 荒ぶる神は静かに押し寄せる死の神威を感じた。

「死の神威が、豊葦原に届く」

「建速様? 我々国津神は何も――」

 ゆらりと、大地が揺れ。
 次の瞬間には、振り子のように大きく揺れだした。


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