高天原異聞 ~女神の言伝~
2 死より出づる者
「……今生でも、お別れですね……」
褥に横たわる老女は、静かにそう呟いた。
「……」
「――私は、すぐに返って参ります。ですから、どうか私をすぐに見つけて下さい」
「わかった。泣くな。心安らかに逝け」
「きっと、また、私は忘れてしまうのでしょう、貴方様と過ごした日々を。それが、哀しいのです……」
「そなたが忘れても、俺が憶えている。案ずるな」
「ええ。お待ちしております。どうぞ誰よりも先に、私を見つけて下さい。黄泉返っても、ずっと、建速様のお傍に……」
泣きながら、最後の笑みを残して去った妻の顔。
視送ることにももう慣れた。
亡骸は、一族の者が手厚く葬るだろう。
荒ぶる神は立ち上がった。
扉を開けると、天之葺根が控えている。
「――建速様」
「往くぞ。葺根」
哀しみに暮れる屋敷を静かに出る。
「次は、どちらに」
「――北へ。喚ばれているような気がする」
そして二度と、此処へは戻らなかった。
気がつけば、暗闇の中にそびえ立つように在る大きな門の前に八塚は立っていた。
「――」
記憶は、荒ぶる神が自分の心臓を止めたところまでだ。
となれば、必然的に自分は死んで黄泉国に来たと言うことだ。
「これは――聞くところによる、黄泉国の大門ですか……」
一人呟くも、返ってくるのは沈黙のみ。
建速が自分を探してここに来るまでは時間がかかるのかもしれないが、自分の神気を追って必ず顕れると八塚にはわかっている。
「建速様の姿も見あたらぬし、かといって一人この門の中に入るわけにもいかぬし――ここは、待つことにしましょう」
そうして、大門から少し離れてその場に座り込む。
辺りを見回すが、大門以外は闇しかない。
ものの姿を隠さない闇ではあるが、どこまで行っても闇ばかりでそれ以外は何もない。
「思ったよりは静かで落ち着いた雰囲気ですね。もっと恐ろしげなところかと想像していましたが」
闇ではあるが、一向に怖れを感じない。
寧ろ、穏やかで心安らぐ闇だった。
これでは、死ぬのも存外悪くもないと思わせる。
思えば、地獄や何だと騒ぎ立てるのは、日本の古来の神道にはない。
黄泉国とは、死者の国なのだ。
「現世の理とは違うだけで、死神や死人が黄泉返るまで留まる魂の住処なのでしたね」
その時。
目の前の大門が、ゆっくりと押し開かれた。
「――」
八塚は慌てて立ち上がり、居ずまいを正した。
ひんやりと伝わる、闇の神気。
一人が通れる僅かな分だけ開かれたその大門から出でたのは、美しい女神だった。
闇にも劣らぬ漆黒の髪。
切れ長の目の、瞳さえ闇色に満ちていた。
闇色の衣と裳が、女神の白く滑らかな肌と美貌を際だたせる。
「死人よ。現世は死の領域と化し、死人の訪れは暫く無かったが、何故そなた一人がここを訪れたのだ」
それが、黄泉国の女神の姿ならば、この女神は。
「黄泉日狭女《よもつひさめ》様――」
死者を導く黄泉の女神の名を、八塚は呟いた。
「我の名を知るとは――只人のそなたから神気が視えるは何故だ? もしや、荒ぶる神の豊葦原の血族か」
「はい、十種の神宝《とくさのかんだから》を護る八塚の当主、八塚宗孝と申します」
八塚を暫し視つめ、日狭女は咲った。
「そうか――そなたが、荒ぶる神の。確かに荒ぶる神の神威の名残を感じる。愛し子よ。静寂と安寧の国によく戻った」
日狭女が優しく八塚を抱きしめる。
「私を、そのように容易く受け入れるのですか? 私は黄泉国に逆らった、いわば罪人です」
「死の前に裁きなど必要ない。黄泉国に戻ったことを、言祝ぐのみ」
「黄泉国では、罪人でさえ裁かれぬのですか」
「現世での行いは、現世でのみ裁かれるのだ。黄泉国は死者の安まう国。戻る定めだから、そうするだけだ。死後裁きにあうのならば、誰も死を選ぶまい」
確かに。
死後裁かれたり、地獄に落ちたりするなら、誰も死のうとは考えないだろう。
現世での苦痛を終わらせたいから死を選ぶのだ。
それは、魂が、死の本当の意味を知っているからなのか。
その証拠に、黄泉国の女神に抱かれ、死にこんなにも近づいているのに、心はこんなにも安らいでいる。
「ですが、日狭女様、黄泉国の住人として戻る前に、しなければならぬ事があります。母上様を現世に返らせねばなりません」
日狭女の容が、色を変える。
身体を離して八塚を視据える。
「母上様が神去ったというのか!!」
「お戻りではないのですね?」
「戻っていらしたなら、すぐにわかる」
「ならば、母上様を捜さねばなりません。この門をくぐるのは、私が事を成し終えてからとなります。今は暫しお目こぼしを」
「もしや、そなたは、母上様を現世に返らせるために死んだのか」
「ええ。それが、荒ぶる神と国津神々の願いですから。私の命がお役に立つなら、死ぬことなど何ほどのことでしょう」
人は、死ぬことを本能的に畏れるが、八塚はこの身が荒ぶる神の役に立てればそれでよかった。
初めて荒ぶる神に出会った日から、この命は、あの美しい神のものなのだとわかっていた。
その為に生き、その為に死ぬことは喜びであって、それ以外は全て瑣末なこと。
それでも、只人である八塚の身を案じてくれた国津神々を、愛しいと思う。
神々とは、慈悲深く、慈愛に溢れ、ただひたすらに愛おしい。
「――希有な命《みこと》よ……死より出づる者。そなたが、我に容易く近づけるのはそれ故か」
「死より出づるとは……?」
「何と、己の命のかけがえなき理由を知らぬのか。何故そなたが希有な命を受けたか、只人でありながら神気と神威を受け継ぐかを」
女神がたおやかに手を一振りすると、そこには現世が現れる。
古めかしい建物。
あれは、八塚の本家だ。
門扉をくぐって出てくる女性は、二十代後半であろう。
その古めかしい服装と、顔を見て、八塚は誰であるかを悟った。
大通りへ出た所で、大きなブレーキ音がした。
そして、強い衝撃音。
「――」
それ以上は見るまでもなかった。
「見ずとも、聞かされていたので知っています。私の、母ですね」
「否。最後まで、そなたは視ねばならぬ」
この後、母は病院に運ばれるが、助からなかった。
月足らずの自分だったが、奇跡的に産まれてきたと。
はたと気づく。
だが、先程見た母の姿はどう見ても妊婦には見えなかった。
月足らずというよりも、妊娠初期だったのではなかったのか。
目の前に依然と現れ続ける現世の様子に、目を向け――
「建速様――」
時を止めたような静寂の中。
横たわる母の傍に膝をつく荒ぶる神の姿に驚く。
これは、自分も知らない。
死を迎える母親の前に、荒ぶる神が顕れたなど。
――私は、死ぬのですか……
――そなたではなく、そなたの子がだ。それが、理だ。
――ならば、私に死を……この子は、生きねばなりませぬ……
母親は、弱々しく手を上げた。
その手を、荒ぶる神が取る。
――この子は、八塚の直系でございます。この子が死ねば……『八塚』は途絶えるのです……
――理に、抗ってはならぬ。そなたは若い。子はまた産める。途絶える定めなら、仕方あるまい。
――いいえ。何の神威も持たぬ私が、ようやく授かった子なのです。私のみが生きながらえて、何になりましょう。この子を世に出さねば、私がしたことは全て意味のないことになるのです……
母は、弱々しい息の中、必死に言葉を絞り出す。
――理に、抗えぬのであれば、どうぞ、私にこそ死を。ここで死ぬのは、私です――
強い意志が、その言葉からは感じられた。
きっと、ここで死ななくとも、子を喪った母は確実に死を選ぶつもりなのだ。
身体が弱く、後継ぎを残すために十代で結婚したものの、長らく身籠もらなかったという。
ようやくできたのが自分だ。
喪いたくなかったのだろう。
――それが、そなたの望みか。
――はい……どうぞ、この子をお傍に……私の代わりに……
今際の際の、母親の言葉が、全てを物語っているのだ。
母の死と引き替えに生まれた自分。
神威も神気も持たぬ、女である母が荒ぶる神に出来たただ一つのこと。
ずっと、傍に。
「荒ぶる神は、そなたの母親の願いを叶えた。どちらかは死ぬ定めだった。だから、母親の代わりに子を生かした」
荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
荒ぶる神の手が、母親の腹部に当てられる。
荒々しい神威が、その手から母親の身体へと流れ込んでいった。
見る見る大きくなる腹部。
最後に微笑みを残し、母親は目を閉じた。
程なく荒ぶる神が去ると同時に、時は動き出し、駆け寄る人々と救急車の音が聞こえた。
運ばれていく母親の姿が見えなくなったところで、映像も消えた。
「――」
死んだ母親の胎内から、産声を上げた子供。
死んだ子供に、返った命。
「それが、私ですか――」
可哀想な、母親。
叶わぬ願いを、子供に託したのか。
神ならぬ身で、神を欲した。
だから、今もこんなにも、神々が愛しいのだ。
「そなたは、命の意味を知った。その命を大切にせよ」
黄泉国の女神さえも、八塚には畏れるものではなく、愛おしい。
「ありがとうございます。日狭女様。荒ぶる神と母に救われたこの命で、必ずや母上様を見つけ出して現世へお返しせねば」
そう、自分自身が返れぬとも。
改めて強く思ったその時、黄泉国の大門が静かに開いた。
「八塚殿」
次に顕れたのは――
「何と――木之花咲耶比売様!!」
八塚が一礼する。
国津神の幸い――比売神の片割れ、木之花咲耶比売が、神代と何ら変わらぬ美しい姿で其処に在る。
「八塚殿の神気を感じました。それ故に参ったのです。母上様の気配は、暗闇の回廊の何処かで途絶えました。きっと、現世に返ろうとなさるはず。母上様を追わねばなりません」
「お任せ下さい。その為に参ったのです」
懐かしげに咲う咲耶比売を見て、八塚も安堵した。
自分の知る神がいるのならば、黄泉国で暮らすのも悪いことではない。
「咲耶比売は、黄泉国でお幸せなのですね」
「瓊瓊杵《ににぎ》様がおられる限り、私は何処ででも幸せにございます。我が父大山津見命《おおやまつみのみこと》にもそうお伝え下さいませ」
「はい。必ずや」
そう答えてから、ようやく女神の意図が掴めた。
日狭女も咲耶比売も、八塚に伝えたかったのだ。
美咲とともに、八塚も必ずや現世に返らねばならぬのだということを。
「――」
神々の慈悲に触れ、八塚は本当に嬉しくなった。
真に、神々とは慈しみ深く、愛おしい。
もう一度、日狭女と咲耶比売に深々と一礼して、八塚は暗闇の回廊へ向かった。
褥に横たわる老女は、静かにそう呟いた。
「……」
「――私は、すぐに返って参ります。ですから、どうか私をすぐに見つけて下さい」
「わかった。泣くな。心安らかに逝け」
「きっと、また、私は忘れてしまうのでしょう、貴方様と過ごした日々を。それが、哀しいのです……」
「そなたが忘れても、俺が憶えている。案ずるな」
「ええ。お待ちしております。どうぞ誰よりも先に、私を見つけて下さい。黄泉返っても、ずっと、建速様のお傍に……」
泣きながら、最後の笑みを残して去った妻の顔。
視送ることにももう慣れた。
亡骸は、一族の者が手厚く葬るだろう。
荒ぶる神は立ち上がった。
扉を開けると、天之葺根が控えている。
「――建速様」
「往くぞ。葺根」
哀しみに暮れる屋敷を静かに出る。
「次は、どちらに」
「――北へ。喚ばれているような気がする」
そして二度と、此処へは戻らなかった。
気がつけば、暗闇の中にそびえ立つように在る大きな門の前に八塚は立っていた。
「――」
記憶は、荒ぶる神が自分の心臓を止めたところまでだ。
となれば、必然的に自分は死んで黄泉国に来たと言うことだ。
「これは――聞くところによる、黄泉国の大門ですか……」
一人呟くも、返ってくるのは沈黙のみ。
建速が自分を探してここに来るまでは時間がかかるのかもしれないが、自分の神気を追って必ず顕れると八塚にはわかっている。
「建速様の姿も見あたらぬし、かといって一人この門の中に入るわけにもいかぬし――ここは、待つことにしましょう」
そうして、大門から少し離れてその場に座り込む。
辺りを見回すが、大門以外は闇しかない。
ものの姿を隠さない闇ではあるが、どこまで行っても闇ばかりでそれ以外は何もない。
「思ったよりは静かで落ち着いた雰囲気ですね。もっと恐ろしげなところかと想像していましたが」
闇ではあるが、一向に怖れを感じない。
寧ろ、穏やかで心安らぐ闇だった。
これでは、死ぬのも存外悪くもないと思わせる。
思えば、地獄や何だと騒ぎ立てるのは、日本の古来の神道にはない。
黄泉国とは、死者の国なのだ。
「現世の理とは違うだけで、死神や死人が黄泉返るまで留まる魂の住処なのでしたね」
その時。
目の前の大門が、ゆっくりと押し開かれた。
「――」
八塚は慌てて立ち上がり、居ずまいを正した。
ひんやりと伝わる、闇の神気。
一人が通れる僅かな分だけ開かれたその大門から出でたのは、美しい女神だった。
闇にも劣らぬ漆黒の髪。
切れ長の目の、瞳さえ闇色に満ちていた。
闇色の衣と裳が、女神の白く滑らかな肌と美貌を際だたせる。
「死人よ。現世は死の領域と化し、死人の訪れは暫く無かったが、何故そなた一人がここを訪れたのだ」
それが、黄泉国の女神の姿ならば、この女神は。
「黄泉日狭女《よもつひさめ》様――」
死者を導く黄泉の女神の名を、八塚は呟いた。
「我の名を知るとは――只人のそなたから神気が視えるは何故だ? もしや、荒ぶる神の豊葦原の血族か」
「はい、十種の神宝《とくさのかんだから》を護る八塚の当主、八塚宗孝と申します」
八塚を暫し視つめ、日狭女は咲った。
「そうか――そなたが、荒ぶる神の。確かに荒ぶる神の神威の名残を感じる。愛し子よ。静寂と安寧の国によく戻った」
日狭女が優しく八塚を抱きしめる。
「私を、そのように容易く受け入れるのですか? 私は黄泉国に逆らった、いわば罪人です」
「死の前に裁きなど必要ない。黄泉国に戻ったことを、言祝ぐのみ」
「黄泉国では、罪人でさえ裁かれぬのですか」
「現世での行いは、現世でのみ裁かれるのだ。黄泉国は死者の安まう国。戻る定めだから、そうするだけだ。死後裁きにあうのならば、誰も死を選ぶまい」
確かに。
死後裁かれたり、地獄に落ちたりするなら、誰も死のうとは考えないだろう。
現世での苦痛を終わらせたいから死を選ぶのだ。
それは、魂が、死の本当の意味を知っているからなのか。
その証拠に、黄泉国の女神に抱かれ、死にこんなにも近づいているのに、心はこんなにも安らいでいる。
「ですが、日狭女様、黄泉国の住人として戻る前に、しなければならぬ事があります。母上様を現世に返らせねばなりません」
日狭女の容が、色を変える。
身体を離して八塚を視据える。
「母上様が神去ったというのか!!」
「お戻りではないのですね?」
「戻っていらしたなら、すぐにわかる」
「ならば、母上様を捜さねばなりません。この門をくぐるのは、私が事を成し終えてからとなります。今は暫しお目こぼしを」
「もしや、そなたは、母上様を現世に返らせるために死んだのか」
「ええ。それが、荒ぶる神と国津神々の願いですから。私の命がお役に立つなら、死ぬことなど何ほどのことでしょう」
人は、死ぬことを本能的に畏れるが、八塚はこの身が荒ぶる神の役に立てればそれでよかった。
初めて荒ぶる神に出会った日から、この命は、あの美しい神のものなのだとわかっていた。
その為に生き、その為に死ぬことは喜びであって、それ以外は全て瑣末なこと。
それでも、只人である八塚の身を案じてくれた国津神々を、愛しいと思う。
神々とは、慈悲深く、慈愛に溢れ、ただひたすらに愛おしい。
「――希有な命《みこと》よ……死より出づる者。そなたが、我に容易く近づけるのはそれ故か」
「死より出づるとは……?」
「何と、己の命のかけがえなき理由を知らぬのか。何故そなたが希有な命を受けたか、只人でありながら神気と神威を受け継ぐかを」
女神がたおやかに手を一振りすると、そこには現世が現れる。
古めかしい建物。
あれは、八塚の本家だ。
門扉をくぐって出てくる女性は、二十代後半であろう。
その古めかしい服装と、顔を見て、八塚は誰であるかを悟った。
大通りへ出た所で、大きなブレーキ音がした。
そして、強い衝撃音。
「――」
それ以上は見るまでもなかった。
「見ずとも、聞かされていたので知っています。私の、母ですね」
「否。最後まで、そなたは視ねばならぬ」
この後、母は病院に運ばれるが、助からなかった。
月足らずの自分だったが、奇跡的に産まれてきたと。
はたと気づく。
だが、先程見た母の姿はどう見ても妊婦には見えなかった。
月足らずというよりも、妊娠初期だったのではなかったのか。
目の前に依然と現れ続ける現世の様子に、目を向け――
「建速様――」
時を止めたような静寂の中。
横たわる母の傍に膝をつく荒ぶる神の姿に驚く。
これは、自分も知らない。
死を迎える母親の前に、荒ぶる神が顕れたなど。
――私は、死ぬのですか……
――そなたではなく、そなたの子がだ。それが、理だ。
――ならば、私に死を……この子は、生きねばなりませぬ……
母親は、弱々しく手を上げた。
その手を、荒ぶる神が取る。
――この子は、八塚の直系でございます。この子が死ねば……『八塚』は途絶えるのです……
――理に、抗ってはならぬ。そなたは若い。子はまた産める。途絶える定めなら、仕方あるまい。
――いいえ。何の神威も持たぬ私が、ようやく授かった子なのです。私のみが生きながらえて、何になりましょう。この子を世に出さねば、私がしたことは全て意味のないことになるのです……
母は、弱々しい息の中、必死に言葉を絞り出す。
――理に、抗えぬのであれば、どうぞ、私にこそ死を。ここで死ぬのは、私です――
強い意志が、その言葉からは感じられた。
きっと、ここで死ななくとも、子を喪った母は確実に死を選ぶつもりなのだ。
身体が弱く、後継ぎを残すために十代で結婚したものの、長らく身籠もらなかったという。
ようやくできたのが自分だ。
喪いたくなかったのだろう。
――それが、そなたの望みか。
――はい……どうぞ、この子をお傍に……私の代わりに……
今際の際の、母親の言葉が、全てを物語っているのだ。
母の死と引き替えに生まれた自分。
神威も神気も持たぬ、女である母が荒ぶる神に出来たただ一つのこと。
ずっと、傍に。
「荒ぶる神は、そなたの母親の願いを叶えた。どちらかは死ぬ定めだった。だから、母親の代わりに子を生かした」
荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
荒ぶる神の手が、母親の腹部に当てられる。
荒々しい神威が、その手から母親の身体へと流れ込んでいった。
見る見る大きくなる腹部。
最後に微笑みを残し、母親は目を閉じた。
程なく荒ぶる神が去ると同時に、時は動き出し、駆け寄る人々と救急車の音が聞こえた。
運ばれていく母親の姿が見えなくなったところで、映像も消えた。
「――」
死んだ母親の胎内から、産声を上げた子供。
死んだ子供に、返った命。
「それが、私ですか――」
可哀想な、母親。
叶わぬ願いを、子供に託したのか。
神ならぬ身で、神を欲した。
だから、今もこんなにも、神々が愛しいのだ。
「そなたは、命の意味を知った。その命を大切にせよ」
黄泉国の女神さえも、八塚には畏れるものではなく、愛おしい。
「ありがとうございます。日狭女様。荒ぶる神と母に救われたこの命で、必ずや母上様を見つけ出して現世へお返しせねば」
そう、自分自身が返れぬとも。
改めて強く思ったその時、黄泉国の大門が静かに開いた。
「八塚殿」
次に顕れたのは――
「何と――木之花咲耶比売様!!」
八塚が一礼する。
国津神の幸い――比売神の片割れ、木之花咲耶比売が、神代と何ら変わらぬ美しい姿で其処に在る。
「八塚殿の神気を感じました。それ故に参ったのです。母上様の気配は、暗闇の回廊の何処かで途絶えました。きっと、現世に返ろうとなさるはず。母上様を追わねばなりません」
「お任せ下さい。その為に参ったのです」
懐かしげに咲う咲耶比売を見て、八塚も安堵した。
自分の知る神がいるのならば、黄泉国で暮らすのも悪いことではない。
「咲耶比売は、黄泉国でお幸せなのですね」
「瓊瓊杵《ににぎ》様がおられる限り、私は何処ででも幸せにございます。我が父大山津見命《おおやまつみのみこと》にもそうお伝え下さいませ」
「はい。必ずや」
そう答えてから、ようやく女神の意図が掴めた。
日狭女も咲耶比売も、八塚に伝えたかったのだ。
美咲とともに、八塚も必ずや現世に返らねばならぬのだということを。
「――」
神々の慈悲に触れ、八塚は本当に嬉しくなった。
真に、神々とは慈しみ深く、愛おしい。
もう一度、日狭女と咲耶比売に深々と一礼して、八塚は暗闇の回廊へ向かった。