高天原異聞 ~女神の言伝~
3 移ろう愛
真円の月が浮かぶ。
其処は、静寂というよりも寂寞とした、夜の食国だった。
「姉上……」
その言霊に、応《いら》えはない。
高天原に至る路はすでに閉ざされ、夜の食国には自分独りだけ。
世話をする采女も、決してその姿を視せるなと厳命されているのか、自分が起きる頃には消えている。
高天原が恋しかった。
姉の傍にいたい。
自分達は対の命なのに、何故姉はあんなにも冷たいのだろう。
大宜津比売に穢された自分を、未だ厭うている故か。
「姉上……」
独り憂えても、応えはなく、夜の食国をただ彷徨う。
さほど広くもない領域をいつしか出でて、闇の中を独り彷徨う。
あてどもなくただ往き過ぎて、どれ程経ったのであろうか。
不意に月神は在る場処に辿り着いた。
「――」
暗闇の中、大きな湖がそこに在る。
「此処は――」
湖岸に降り立つと月見を楽しむために設えられたように大きな一枚岩が在る。
静寂の中、浮かぶ月。
凪いだ湖面。
膝を折り、その淵を覗き込めば、あまりにも澄んでいて己の姿がくっきりと映る。
思わず触れると、波紋が湖面を震わせた。
「その水を、飲んではならぬ」
低く、だが優しい響きの言霊に、月神は驚いて振り返った。
夜の闇の中に、美しい神の姿が視えた。
此方を見据える瞳は美しい琥珀色だった。
漆黒の長い髪に闇色の上衣を纏い、闇に在るのが相応しい男神であるのに、陰の神気は見事に調和していた。
「なんと、我以外に此処を見出す者が在ろうとは」
男神が近づいて来る。
月神は立ち上がった。
「その神気――月神だな」
美しい容が、自分を覗き込む。
この神気は――黄泉神だと気づいた。
「何故に此処へ? 月見にしては、高天原からは遠すぎる」
「――」
では、此処は黄泉国なのか?
それはおかしい。生き神は、黄泉国には来られない。
「その容からするに、太陽の女神は知らぬな。大方、気に入らぬ事が在って彷徨い出て、偶然に此処を見出したか」
「――」
この男は、私が神逐《かむやら》いされたことを知らぬのか。
黄泉神の言霊を量りかねて、月神は応《いら》えを返せずにいた。
そんな月神の様子に、男神は首を横に振る。
「答えたくないなら、良い。独りになりたい時とてあろう。私のことは気にするな」
黄泉神である男神は、静かに一枚岩に腰を下ろした。
「今宵は望月。月夜を愛でに来て、本当の月を拝めるとは。月神も座るがいい」
あまりにも事も無げに言われたので、月神は素直に傍らに腰を下ろした。
不思議な心持ちだった。
自分に平気で話しかけてくる。
高天原には、もう気安く言霊を交わしてくれる神はおらぬというのに。
「美しい処だ、此処は」
「そうであろう。おそらくそなたが生まれる前から在る処だ。この美しさと静かさは、格別だ。だから、我も何度も足を運んでしまう」
「では、此処は、黄泉国ではないのか」
「違う。黄泉国ならば、そなたは来られぬ。此処は狭間の領域。暗闇の世界だ。恐らく我とそなたしか此処に足を踏み入れた者はおるまい」
「そうか。そなたの気持ちはわかる。こんなにも美しく静かな処ならば、私も夜毎此処に来たいと思う」
そう返すと、黄泉神は意外そうに月神を視た。
「どうした?」
「闇を愛する私の気持ちがわかるなどと――そのようなことを言われたのは初めてだ。神々は、大抵は闇よりも光を愛する」
「そうだな。だが、私は月神だ。月は闇にこそ映えるもの。それ故、月神が闇を愛するのはおかしな事ではあるまい」
その言霊に、黄泉神は咲った。
あまりにもそれが優しげに視えたので、月神はその咲《え》みに暫し心を奪われた。
「月は闇にこそ映える、か――その通りだ。月神と語り合うのがこれ程に楽しいものとは、思わぬ僥倖だ」
黄泉神の言霊に、月神も嬉しくなる。
これ程永くともにいて、このように話せる者など、高天原にはいなかった。
三貴神である身で、容易く語りかける者などいないし、自分も高天原に在りたかったのは、偏に天照の傍に在りたかったからだ。
その天照でさえも、容を視れば常に夜の食国に返れとしか言ってはくれなかった。
だが、この黄泉神は違う。
初めから、心易く語りかけてくれた。
このような神は、他にいない。
「そうか。私もそなたと話すのは楽しいし、嬉しい」
月神も咲いながら応えた。
互いに咲い合い、心が温かくなるのを互いに感じた。
「では、明晩も此処で会おう。我はまたそなたと語らいたい。友と語らうように」
「ああ。明日もまた、このように心易く語らいたい。そなたはすでに私の友だ」
月神は、初めて得た友に問うた。
「友よ、そなたの名は?」
男神は、瞬き一つの間、逡巡した。
「我は――黄泉大神。黄泉国を統べる闇の主だ」
その言霊に、月神は違和感を憶えた。
「それは、そなたの名ではない」
月神の言霊に、男神は咲った。
「月神は稚いな。まるで幼子のようだ」
「何故だ。名を聞いたからか」
「そなたは我に真名を問うたのだ。そのように容易く問うものではない」
教え諭すように、男神は言う。
だが。
「私はそなたを闇の主とは呼びたくない。黄泉大神ともな」
黄泉大神も、闇の主も、この男神を呼ぶには相応しくないと月神は感じた。
月神の言霊に、男神は暫しその容を視つめ――それから、愛しげに咲った。
「私もそなたを月神とは呼びたくない。私の名など好きに呼べ」
咲う男神は、死を司る闇の主には視えなかった。
その容を、月神は視つめ返した。
美しい琥珀の瞳が、闇に浮かぶ月のように美しかった。
自分達は、どこか似ている。
そう気づいた。
「では、夜見《よみ》。私はそう呼ぶ。我らが愛する闇の領界、美しい夜の世界を見護る者故に」
呼ばれた瞬間、言霊が祝福するように大気を震わせた。
月の光の欠片が、様々な色を持って二柱の神の周りを彩る。
「何と――そなたは美しき言霊で、私を言祝いだ」
闇の主――否、新しき名を得た夜見の美しい容が、柔らかくほころんだ。
「では、私はそなたを夜《よる》と呼ぶ。そなたを見つめるに相応しき名だ」
夜見の口から出づる美しい名が、先程と同様に大気を震わせた。
闇に降り注ぐその光は、さながら星の欠片を散りばめたように言祝ぐ。
二柱の神は、互いを視やり、そして、咲った。
「よかろう。此処にいる間は、互いをそう呼ぼう」
「ああ。此処にいる間は、我らはただの夜見と夜」
「そう、此処では、何の柵もない、かけがえのない友だ」
美しい夜だった。
愛しい者とようやく出逢った、初めての夜だったから。