高天原異聞 ~女神の言伝~

 何故哀しみは、繰り返すのだろう。
 何故巡り巡って、また同じ過ちを繰り返すのだろう。
 夜の食国を出たからか。
 もう二度と出ないと誓ったのに、高天原からの召喚に応えてしまったからか。
 
「あの日から、私は夜の食国から出なかった。出て往けば、再び始まる苦しみを、わかっていたから。わかっていたのに。何故私は、同じ過ちを繰り返しているのか――」

 月神は、伊邪那美に抱きしめられたまま言を継いでいた。
 夢だというのに、ぬくもりを感じた。
 そして、愛さえ感じた。
 大いなる愛を。
 初めて受ける母神の愛に、静かな涙が零れる。
 傷ついた命を癒すように伝わるぬくもりに、此処に還りたかったのだと感じた。

「母上様……」

 本当は、ずっと母神が恋しかった。
 三貴神として現象した瞬間から、常に恋しかった。
 伊邪那岐の心を受け継いでいたが故に募る思いは、天照が在れば満たされると思った。
 だが、それは天照ではなかった。
 自分を視て、満たしてくれたのは、闇に在って、なお美しい琥珀の瞳をした異形の神だった。

――愛し子よ。此がそなたの苦しみの根元なのですね

「そうです。此が、私の物語。何処にも還れず、何処にも往けない月神の終わりなき物語」

――愛し子よ。そなたの愛はその器に隠れて視えなかっただけ。そなたはもうわかっているはず

「母上様……」

――対の命は、誰もが得られるわけではない。対の命を見極められず、苦しむ神々も在るのです。そなたのように

「――」

――惑わされてはならぬ。苦しみや哀しみを己の内から取り払い、ただ心にのみ問うのです。その心が誰に向かうのかを

 月神は、身体を離して母神を視た。
 今や陽炎の如く儚く揺らぐ、それでも必死に留まろうとする母神の姿を。

「私の心が、誰に向かうのか……」

――愛し子よ。そなたの心が向かう先に往くのです。それが、この縺れた糸を解く先駆けとなるでしょう

 母神は、最後にもう一度月神を抱きしめた。
 揺らめく陽炎のようであるのに、温かく、慈愛に満ち溢れた神気に、月神は確かに癒されていた。
 その愛を喪うことを畏れ、月神は目を閉じて、意識すら手放した。
 そうして、どれ程の時が過ぎたのか。
 目を開けると、そこには誰もいなかった。
 ただ寂莫とした夜だけがそこに在った。

「――」

 月神は褥に戻り、横たわると息を吐いた。
 夜風にあたり、苦しいばかりの物思いが幾分和らいだ気がする。
 永く苦しくも優しい夢を、視ていたような気もするが、思い出せない。
 だが、思い出せないのならばそれでいいのかもしれない。
 もう、夢は視ないのだから。

「何処だ、九十九神?」

 月神の呼びかけに、空間が揺らぎ、するりと九十九神が顕れる。
 安堵の溜息が、月神から洩れる。

「よかった……()ってしまったのかと思った」

 迎えてくれる優しい言霊に、九十九神は戸惑うように問うた。

――御方様……我らがお傍に在っても、厭わしくお思いにならぬのですか?

「何故そのように思うのだ。そなたらは我を護ってくれている。愛しく思いこそすれ、厭わしいなどと思うものか」

 月神の言霊に、蠢く闇が歓喜に身を震わせる。

――御方様……

「赤子のようだな……さあ」

 その声音さえも、甘美で心を震わせる。
 赤子をあやすように優しく抱きしめられ、一層月神への愛しさは募る。
 闇が月神を包み込む。

「そなたらは温かい……」

 月神が身を委ね、そこに一切の嫌悪がないことが九十九神にもわかる。
 薄く開いた唇に、闇が触れる。
 おずおずと躊躇う動きに、月神は自ずと舌を絡めてやる。
 月神の変若水(おちみず)が瞬く間に九十九神に力を与える。
 傷つき、奪われた半分がたちまち癒されていく。
 濡れた舌を包み込むと同時に、月神の口内に入り込み、丹念に愛撫する。

「んぅ……」

 心地よさに月神の身体が仰け反る。
 九十九神はさらに夜着の内側に入り込み、白くなめらかな裸身を全て包み込む。
 包まれた闇に柔らかな乳房が揉みしだかれ、硬く凝った桜色の先端に吸い付かれると、月神の甘やかな呻き声が漏れ、女陰が濡れ始める。
 乳飲み子のように無心に乳首を吸われ、月神は一層強く九十九神をかき抱く。
 いつの間にか脚は大きく開かれ、無防備な足の付け根さえ包み込まれ、女陰の襞に吸い付かれていた。
 それでいて、決して奥までは入ろうとしない。其処は主のものだと知っているかのように。
 巧みな愛撫に、月神の身体は素直に喜びを露わにし、しとどに濡れた女陰がさらに舐め尽くされ、九十九神の神威が満ちる。
 人形(ひとがた)を持たぬ闇なれど、意識の集合体であり、拙くも思考していた九十九神は、月神の変若水を与え続けられたことにより、すでに神格すら高めていた。
 主以外に受け入れられた喜びに、九十九神は一層月神を慕う。

――御方様。母上様とお呼びしてもよろしいですか……?

 言霊を返せぬ月神が頷く。
 包み込む闇に一層身をすり寄せる。
 受け入れられる喜びに、九十九神は酔いしれる。

――ああ……母上様……母上様……

 闇の主が求める太古の女神は違った。
 自分達に対して、恐怖と嫌悪しかなかった。

 月神は自分達を拒まない。
 それどころか愛しげに受け入れ、全てを委ねてくれる。

 主には、この方こそが相応しいのに。
 主とて、本当は月神が愛しくてならぬのに。

 自分達は闇の主より成りませる神。
 この心は主と繋がっている。
 だからわかる。

 主には、月神こそが対の命。

 主を父神とし、月神を母神として、自分達は新たな神と成った。

 ならば、自分達が理を正して視せよう。

 二柱の神によって新たな神格を得た九十九神は、すれ違う祖神のために何が出来るか思考し続けた。



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