高天原異聞 ~女神の言伝~

6 死の終わり

 それまで密やかだった波紋の揺らぎが、波のように大きく変化した。

「母上様!!」

 横たわる美咲は動かない。
 だが、その姿が俄かに淡く輝きだした。
 それまで頑なだった水が、柔らかく変化し、荒ぶる神と八塚を中へと引き込む。

「建速様!」

 荒ぶる神の神威が八塚を包む。

「美咲が喚んでいるのか」

 水に沈みながら、荒ぶる神と八塚は、美咲の傍らへと降りていく。
 黄泉国の手前と言えども、やはり現世とは異なる故か、水さえも幻のように現実味がない。
 美咲に触れられるほど近づいたとき、水は最早消えていた。
 頭上にさえ、暗闇が続くばかり。
 沈んだはずなのに、変わりないようにさえ思えた。

「美咲」

 触れようとしたのに、それ以上荒ぶる神には近づけなかった。
 視えぬ水が、吹かぬ風が、女神に触れるのを拒んでいるかのように。

――愛し子よ……

 自分を求める言霊を感じる。
 これは『美咲』ではない。
 この言霊は、気の遠くなるほどの永い時を捜し続けた――

「伊邪那美――?」

 淡く輝く光が美咲の頭上に顕われる。
 その光は、美咲の姿ではなく、待ち望んでいた太古の女神の姿をしていた。

「母上様……」

 初めて目の当たりにする創世の女神の姿に、八塚の感嘆が漏れる。
 美しい女神は、幽けき姿で辛うじて現象し続けている。
 だが、幽けき姿であろうと、その圧倒的な神気に息をのむしかない。

 なんという愛。

 その存在そのものが慈愛に満ちている。
 どの女神とも違う。
 比べることさえできない。
 平伏して、己の全てを捧げたいと願わずにはいられない――これが神々が愛してやまない創世の女神なのだ。

――終わりの、(とき)が近づいている……

「伊邪那美よ、最後の刻とは何の――誰の最後なのだ」

 荒ぶる神の問いに、女神は寂しげに微咲(ほほえ)む。

――愛し子よ……斯くも永き時を彷徨って此処に在る、最後の貴神(うずみこ)よ。そなたを待っていました……

 陽炎のように儚い姿が荒ぶる神を抱きしめる。
 伝わる温もりと慈愛に、荒ぶる神もまた母神を抱きしめる。

「ようやく視つけた――」

――愛し子よ、私は黄泉返らなければなりません。そうでなければ、豊葦原はこのまま黄泉国となる……

「母神よ。どうすれば――」

――死を覆す命が必要です。死を以て、死を返さねばならない……

「誰の(みこと)が要るのだ。俺のならば今すぐにでも与えてやる」

「建速様⁉」

 八塚の驚く声が響く。

「母上様、なりませぬ。建速様は最後まで貴女様をお護りできる唯一の神。代わりに私の命を。私の命では足りませぬか?」

 女神が八塚を返り視る。

――荒ぶる神の末で在れど、そなたはすでに神ではない。我が死を返すには、我から別たれた命が必要なのです

「別たれた命――まさか、国津神々か――?」

――そうです。かつて私が豊葦原に与えた命、背の君のために分け与えた命を、取り戻さねばならぬ……

「そんな――」

 八塚の呟きが漏れる。

 母神が黄泉返るためには、国津神々の命が必要だというのか。

 愛すべき神々を思い、八塚は驚きを隠せず、動揺していた。
 一方、荒ぶる神は平静だった。
 伊邪那美が神去ったのは、火の神を産んだからだけではない。
 あらゆる命の母たるものの定めとして、己の命を分け与えたためなのだ。
 だからこそ、その命を以ってして、死を覆し、黄泉返る――それが理なのだろう。

「伊邪那美よ、それが御身の願いか」

――願いではなく、定めなのです。其の為に、私は黄泉国から比売神と現世に返ったのですから……

「では、定めのために、何ができる?」

――私の魂魄を目覚めさせ、現世と幽世の境まで導いてください

「我々神が戻るなら千引(ちびき)の岩まで往くことになる。道返之大神(ちがえしのおおかみ)が護る現世と幽世の境へ」

 伊邪那岐の定めた現世と幽世の境――黄泉比良坂。
 神々が通る路だ。

「必ず現世へ連れ返る。それが、俺の誓約だから」

 女神が荒ぶる神の頬に優しく触れる。

――そなたは、私とあの方の心からなりませる神。だからこそ、生と死を分かつ世界を往きつ戻る。強く喚んでください。生と死に別たれた私が、再び一つに在れるように

 幽けき女神の姿が消える。
 その存在感の喪失は辺りの空気さえ凍えさせるように寂しく冷たかった。
 立ち尽くす荒ぶる神の傍らで、八塚がその場に頽れる。

「八塚」

 荒ぶる神が膝をつく。
 幼子となった八塚が顔を上げる。その眼差しは慄きに揺らいでいた。

「すみません。人の身には少々きつかったようです。母上様があのように――」

「神気に当てられたか――無理もないな」

「只人の私でさえ一目で心を奪われるものを……あのように愛しい方を喪ってしまった国津神々の嘆きは如何ばかりかと。ましてや、対の命である父上様の絶望を思うと」

 零れる涙に、八塚はようやく気づいた。
 記憶もなく、神気(しんき)神威(かむい)すらない美咲と慎也でさえ愛しく思わずにはいられないのに、創世の神のままの神気と神威を目の当たりにして平静でいられるはずもない。

「なんという喪失感でしょう。こんな苦しみを神々は味わってきたのですか」

「そうだな――だからこそ、取り戻したいと希うのだろう」

 消えてしまった女神の姿を、荒ぶる神は思い返す。
 喪失感は現象してから常に己の内に在る。
 初めから喪われたものを求めるこの痛みを感じるのは、三貴神の中で自分が最も強いだろう。
 それ故に、母神を求め、何処にも留まれず、彷徨う。
 それが己に与えられた天命だからだ。
 横たわる美咲を視つめ、荒ぶる神は息を吐く。

「八塚、下がれ」

 言霊通り、八塚が下がる。
 荒ぶる神が美咲の傍らに跪く。

「奏上致す」

 神気が揺らぎ、神威が満ちる。

「我は三柱の貴神(うずみこ)にして水と風と嵐の主なり。荒ぶる神の名において、母神、伊邪那美を暗闇の回廊より引き戻さん。
 水神、風神よ。闇より我に、母神を預けよ!!」

 暗闇を照らす眩い神威が、荒ぶる神から放たれた。
 同時に、水と風が呼応した。
 あれほど頑なだった水が揺らぎ、風が横たわる美咲を押し上げた。
 水から顔が出ると同時に、美咲が目を開ける。
 視界に荒ぶる神をとらえた途端、美咲は叫んだ。

「建速!!」

 しがみつく美咲を抱きしめながら荒ぶる神が息を吐く。

「迎えに来た。もう心配ない」

「私、戻れるの? 黄泉のものを口にしたら戻れないって――」

「何を口にした」

「わからない。水のようだった。無理やり飲まされて――吐き出したんだけど」

 美咲を抱きしめたまま、荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
美咲の身体が荒ぶる神の神威に包まれる。

「黄泉の源泉なら記憶が消えるが、吐き出したのなら大丈夫だ。返れる」

 短く告げると、荒ぶる神は美咲を抱え上げる。

「八塚、来い。神威を使ったなら、闇の主に気づかれた。すぐに来る」

「はい」

「え? 八塚、様?」

 驚いている美咲を右腕に、笑い返す八塚を左腕に抱え上げた荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
 瞬時に美咲の視界が暗闇から変わる。

「……ここ、見たことがある気がする」

 辺りを見回すと、平坦な一本道を大きな岩が塞いでいる。

「千引の岩だ」

 荒ぶる神が美咲と八塚を下ろす。

――荒ぶる神よ……

 道返之大神(ちがえしのおおかみ)の幽かな神話が届く。

「道返之大神よ、もう一度我々を通らせてくれ」

――そなたは通れる。しかし、只人は通せぬ。それが理だ

「美咲は伊邪那美だ。何故通れぬ」

――只人だ。今は女神ではない。神気も神威も感じぬ。そこな童は神気と神威を持てども只人だ。やはり通れぬ

「女神である神気と神威をなくしたのか――」

「木之花咲耶比売も母上様が只人のようであったと――それ故、伊邪那美様が顕われたのですか」

「何らかの理由で別たれたのなら、やはり美咲を返らせねばならん。戻ってあちら側から喚ぶ」

 死人であるはずの八塚と美咲には進めない。
 理がそれを許さない。
 理を覆す新たな理が必要だった。

「八塚。美咲とともに。必ず返らせる」

「はい。お待ちします」

 決して揺るがぬ言葉。思い。
 見た目は小さくなっても八塚の本質は何も変わっていない。
 荒ぶる神が消えた後、八塚は振り返って美咲に笑いかける。

「母上様、お座りください。暫し待つことになりそうです。大丈夫ですよ。きっと返れます。建速様が来てくれたのですから」

「え、ええ。でも、八塚様、その姿は……?」

「これですか、私にもわからないのですが、なぜか母上様を探して歩いているうちにこの姿に」

 座り込んだ八塚は美咲には小学生にしか見えないので戸惑いが先に来る。

「ですが、きっと私は今も建速様に初めて出会った十歳の頃のままなのでしょうね。身体の時間と同じで、進みも遅いのです」

「え? 身体の時間……?」

「現世での私がいくつに見えましたか?」

「え? えぇっと、三十後半から四十ぐらいに見えました……」

 面白そうに聞く八塚に、美咲は自信なさげに答える。

「私はもうすぐ米寿を迎えますよ」

「え、米寿って、確か、八十八歳ですよね……え、ええええ⁉」

 驚く美咲がまじまじと八塚を見るが、今はさらに若い十歳くらいにしか見えない姿に冗談を言っているようにはまるで思えない。

「建速様に救って頂いたおかげか、十歳で神気と神威が顕われました。それから、私は通常の人と違って老いにくくなってしまったのです」

「そんなことが――」

「秘密を明かすついでに、もう一つお教えしましょう。葺根様の憑坐は、弟ではなく息子です。老いぬ姿では、さすがに親子とは名乗れませんからね」

「――」

 驚きの連続に、美咲はもう言葉が出ない。
 流石に申し訳なく思ったのか、それ以上の秘密はもうないのか、八塚は静かに息を吐いた。

「姿が幼くなると、心も幼くなるのでしょうか。どうも口が軽くなりました」

「い、いえ。私も、永い夢を見ていたので、ちょっと混乱していて……」

「夢を……? もしよろしければ、夢の話をお聞かせください。もしや母上様の神気と神威がなくなった経緯がわかるかもしれません」

 朧げに覚えているのは、夜の食国に彷徨い出て、月神に会ったことだ。そして、あまりにも月神が憐れに思えて抱きしめたところまでだ。

「確か、高天原の夢を見ていて、月読命に会って、そこから、どうしても記憶が曖昧で、気づいたら咲耶比売が走れと――」

「月神様に会ったのですか? では、母上様が亡くなったのは月神様の呪によるものかも」

「え……?」

「もしや、月神様と黄泉大神が手を組んだと――」

 八塚は驚いているようだった。
 美咲も夢をもっと鮮明に思い出そうとするものの、神逐(かむやら)いされる建速と月読、引き離された天照の夢しか記憶になく、月読が黄泉大神と一緒の夢は記憶にはない。
 ますます混乱する。
 それでも、月神と黄泉大神――なぜか違和感がないような気がする。
 もしも二柱の神が手を組んだのなら、いや、太陽の女神も自分が現世にいることをよく思っていなかった。
 彼らが全て手を組んだのなら、建速だけで立ち向かえるのだろうか。

「――」

「母上様、大丈夫です。何があろうとも建速様を信じてください。母上様を必ず現世にお戻ししますので」

 小さくなった八塚が不安がる美咲を慰める――これは逆ではないだろうか。
 不安だった美咲の心が少し和らいだ。
 そんな美咲を見て、八塚も微笑み返す。

「ところで母上様、高天原の夢には建速様もいらしたのですか?」

「ええ。今と変わらず、頼もしい神でした。とても自由で」

 美咲は建速の高天原での様子を伝え、八塚が目を輝かせて聞く。
 それは現世と幽世の境に在って、ほんの少し心和む一時だった。

「建速様には及びませんが、このように人と違う流れの中に在ると、建速様が一所に留まれぬお気持ちもわかるのです。あの方は御治によってその姿容が全く変わらぬのですから。それでも留まってほしいと思うのは、私の我儘ですね」

 膝を抱える八塚は、姿のように幼く見えて、ついつい美咲の顔はほころんだ。

「八塚様は、建速のことが大好きなんですね」

「はい。今の私があるのは、あの方のおかげですから」

 八塚もまた、自分が生まれた経緯をかいつまんで美咲に話した。

「きっと私も、遠き神代では、建速様の近くに在る神だったのかもしれません。だからこんなにも建速様や国津神々を愛おしく思うのでしょう」

 遠くから、雷鳴のような音が聞こえる。
 それは岩の向こうから聞こえてくるようだった。

「これは――建速様ですね。現世と幽世を繋ぐ結界を護る稲妻が聞こえるなら、母上様、いよいよ黄泉返る時です」

 立ち上がる八塚につられて美咲も立ち上がる。
 八塚は居住まいを正し、美咲に向き合った。

「八塚様――?」

「母上様、覚えていてください。この幸福は全て、母上様がくださったのです。私達は皆貴女様をお護りします。例え我々が消え逝くとも、それは全て貴女様への愛ゆえなのです」

「ほう。伊邪那美を再び黄泉返らせるつもりか」

 闇からかかる、穏やかな言霊。

「――」

「黄泉大神――」


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