高天原異聞 ~女神の言伝~
八塚と美咲が視線を向けた先には、黄泉国の主の姿が在った。
闇にも輝く漆黒の長い髪。
美しい琥珀の瞳。
美しくも異形の神を目にした途端、恐怖に足が震える。
そんな美咲の前に八塚が進み出る。
「お下がりください、母上様。ここは私がくい止めます」
自分よりも小さくなった八塚の肩を咄嗟に掴む。
「駄目です、八塚様。一緒に」
振り返って微笑む八塚の笑みは以前と変わらない。
「私の命は、建速様のものです。建速様のために、何としてでも母上様を現世にお戻しします。私のために、貴女様を待つ全ての神々のために、お戻り下さい」
八塚が近づいてくる闇の主の前に自分から進み出て立ちはだかる。
「死人であれば、我に叛いてはならぬ」
「死人であるからこそ、頭を垂れ、慈悲を乞うのです。黄泉大神よ。太古の女神を追ってはなりませぬ」
「我の望みは一つ。それを、妨げるか」
「向かう先を、違えておられるのです。貴方様の対の命は、伊邪那美様では在り得ぬのですから」
「皆口を開けばそう言うな。ならば、我の対の命は誰なのか申してみよ。我が違えておるなら、正しき対の命を告げてみよ」
「――」
愛しく、憐れで、孤独な神。
死によって結びついているからこそ、この神を厭うことなどできない。
そして、それは、この神とて同様なのだ。
創世の女神とは全く異なる慈愛が、異形の神から感じられる。
「応えを持たぬ者に我を止めることはできぬ」
「それでも、お留まりください。神々の全ての願いであり祈りなのです」
「願わぬ神も在る、我以外にも」
闇の主が指差した方向に視線を向けた八塚は驚きに目を見開いた。
「まさか――」
「八塚様……」
畏れながらも闇の主に立ち向かう八塚の後ろ姿に、美咲は自分も進み出ようとするものの足がどうしても動いてくれない。
そんな美咲の目の前に淡い光が浮かび上がる。
「――?」
その光は見る間に大きくなり、女神の姿を象る。
その姿が光ではなくなった時、美咲はその女神が誰なのか理解した。
「あ、天照大御神――」
「ええ。母上様。天照でございます」
闇には似合わぬ太陽の女神が、今、神気を隠して密やかに現世と幽世の境に在る。
「どうして――」
「母上様にお会いするためだけに参りました」
そういうと、太陽の女神は静かに跪いた。
輝くような神気も神威も感じられない太陽の女神は、どこか寂しげに見えた。
荒ぶる神と対峙していたような威厳や強靭さは、今の太陽の女神からは微塵も感じられなかった。
それどころか躊躇うことなく跪く太陽の女神を前に、美咲は驚く。
「私はこの豊葦原を青人草のものとすることを誓約しました。しかし、今生に在って豊葦原は黄泉国の領界となりました。最早私の神威もとどきませぬ。現世の理が崩れてしまったのです」
「――では、現世は、このまま黄泉国の領界となるの?」
「母上様が、現世に留まろうとする限り」
「そんな――」
自分が黄泉へ戻れば、この闇は祓われるのか。
豊葦原に朝が来るのか。
わかっていても動けない。
喉がひりついたように声は言葉を拒絶する。
一度口にしてしまったら最後、それは取り消せなくなるとわかっているからだ。
記憶が戻らなくとも、わかる。
自分は戻りたくない。
あの闇には、もう二度と、どれほど懇願されても戻りたくないのだ。
「國産みを!」
太陽の女神が振り返り、美咲の視線が流れる。
小さな八塚が叫んでいる。
「父上様と母上様がいるのなら、新たな國産みは可能なはず!! もう一度、新たに國産みをすれば、黄泉国の領界となる前の豊葦原に戻せるのでは」
「それはできぬ。それでは、新たに全てが創り変わる。今生きている者を消し去ることは私が許さぬ」
「天照様!!」
「誓いしたのだ。我が孫瓊瓊杵に豊葦原の統治を許してから後は、私は――高天原はこの地を視護るのみと。それが、瓊瓊杵の望みでもあったから。瓊瓊杵の血が途絶えぬ限り、私はこの豊葦原を護らねばならぬ。この地の存亡に神々が介入することは許さぬ。滅びるのであれば、それはこの豊葦原に住まう青人草が決めること」
太陽の女神は美咲に向き直る。
「瓊瓊杵は、人の住まう豊葦原を愛していました。愚かだと、私は言いました。だが、愚かさこそが愛しいのだと、瓊瓊杵は言ったのです。愚かだからこそ、神を求めるのだと。その思いに、応えたいのだと。私にはわからぬのです、母上様。何故、神々が豊葦原を慮がれるのか――」
天津神が恋うるのは高天原で良いはずなのに。
それが理なのに。
愛する者は高天原に背を向けた。
「それでも、瓊瓊杵はこの豊葦原で神去りました。ここは瓊瓊杵の魂が宿る地。命そのもの。全ての血の中に宿る瓊瓊杵を、私は最後まで視護らねばならぬのです」
この血に連なる愛しい者の、それが、最期の望みだったから。
太陽の女神が手をつく。
「母上様、伏してお頼み申します。どうぞ黄泉国にお留まりください」
「天照様……」
「高天原の――天津神の総意でございます。理を乱したが故のこの混乱をどうぞ収めてくださいませ。母上様にしかできぬのです」
もう一度頭を垂れると、太陽の女神は立ち上がり、静かに消えていった。
「母上様!!」
八塚が美咲に駆け寄ろうとする。
だが――できなかった。
「愛し子よ。暫し眠っておれ。我を妨げてはならぬ」
その言霊に死人である八塚が抗えるはずもない。
言霊と共に崩れ落ちる八塚を、闇の主は抱き留め、静かにその場に横たえた。
そして、容を上げた。
「――」
黄泉大神に対峙する幼い八塚が太陽の女神の姿があった場所から向こうに見える。
「母上様!!」
太陽の女神の言霊に衝撃を受けていた美咲は、その声に我に返り八塚のもとへ行こうとした。
「八塚様⁉」
美咲は突然倒れ、横たえられた八塚に駆け寄る。
「八塚様、しっかりして!!」
抱き起こして呼びかける。
その傍らに膝をつく黄泉大神など目に入らぬ様子だ。
「すでに死んだ身よ。再び死すことはない。安心せよ」
その言霊に、美咲がようやく闇の主に視線を向ける。
怯えた顔で、それでも闇の主を見つめていた。
「どうしてこんなことするの……」
「すべては、黄泉国のため。貴女も黄泉国を統べねばならぬ。我の対の命として」
「私は、あなたの対の命じゃない! 私の対の命は伊邪那岐しかありえない!!」
「それは、神去る前のこと。神去った後は、貴女は死の女神としてこの黄泉国の母神と成ったのだ」
「死んだら終わるとでも? 離れたら、心も変わると、それが対の命だっていうの?」
「貴女はそうではないから、違うと? 裏切られ、置き去りにされてもなお求めるのが対の命であるとでも?」
傷ついた心を悟られたくなくて、美咲は八塚を抱く腕に力を込めた。
自分自身に言い聞かせる。
あれは過去のことなのだ。
遠い昔の、過ぎ去った思い出。
そんなものに囚われて、今の幸せをなくすなんてできない。
「――そうよ。違うわ。こんなにも、今も、裏切られても、置き去りにされても、それでも愛しいと思うもの。悲しみや怒りだけじゃない想いがあるもの。傍にいるだけで心が震える、この想いだけで他に何もいらないと、この瞬間が永遠になればいいと願う心が。あなたにもあるでしょう、そんな想いを抱いた唯一のものが」
「――」
「私が傍にいて、そんな気持ちになるの? それが対の命だもの。そんな風に求められないくせに、わかっているくせに、なぜ私に執着するのよ!」
叫んだ美咲の身体から、神気が揺らぎ、神威が満ちる。
「⁉」
地が震える。
千引の岩が開く。
――その神気と神威は、まさに創世の女神、伊邪那美命のもの。母上様、いざ現世へお返りあそばせ
その音なき言霊に、美咲は意識のない八塚を抱きかかえたまま走り出す。
「伊邪那美よ、また我から去るか」
走っていく女神の現身。
だが、その背後には、陽炎のように揺らめく死の女神の後ろ姿が重なる。
振り返らぬ女神の、神話が伝わる。
――私を求めておらぬのに、何故時を費やすのです?
「求めておらぬと――? 理を覆してまで、貴女を求める我の心を、何故貴女は受け入れぬのだ」
――過ちを正すのが、怖ろしいのですか? 過ぎし時を惜しみ、無駄に費やした時を惜しむ故に、真実を見極めることを諦めるのですか? それは、己の命を削ぎ落とすに等しい
「ならば、その言霊を、真向かって告げてみよ!!」
その声音の鋭さに、美咲が一瞬だけ振り返る。
だが、すぐに現世への路を駆けていく。
――黄泉大神よ。貴方と真向かうのは、私ではない。貴方が真向かうべきは対の命のみ。それ故、私が貴方を選ぶことはないのです。どれ程の時が過ぎ往こうとも
「我の対の命は、貴女だ。黄泉大神である我の対の命が、死の女神である貴女でないはずがなかろう」
――ならば何故貴方は心を私以外の者に向けるのですか?
「何を――」
――他に心を寄せることなど、出来ぬ程に愛おしく分かちがたく求める。それが、対の命なのです
愛おしく、分かちがたく、求めずにはいられない――そんな者は、後にも先にも、唯独りだった。
――貴方は、私をそのように求めたことなどなかった。本当は、気づいていたのでしょう?
だから、待てた。
待ちきれなくなったのは、その唯一を喪ってしまったから。
心の隙間を埋めるために、伊邪那美を求めた。
「あれが、私の対の命の筈がない――」
あれは、友だったのだから。
あの愛しさは、友への思いだと言い聞かせていたのだから。
――心が誰へ向かうのか、貴方も見極めねば。その後で、私も貴方と真向かいましょう
「――それが、最初で最後か」
――ええ。名残のような私でなく、永い時を経て、全てを終わらせるために返る伊邪那美命である私と
女神の神話とともに、陽炎のような姿も消える。
残されたのは、闇の主のみ。
すでに女神の現身は現世への路を駆け去っていった。
暗闇を視据える琥珀の瞳はどこまでも美しい。
「ならば、その時まで我も足掻いて視せようぞ。貴女の想いと我の想いのどちらが永く重く対の命を求めてきたか」