高天原異聞 ~女神の言伝~

7 国津神々


 荒ぶる神が現世に戻った時、豊葦原は未だ死の神威の脅威に晒されていた。
 視得ぬ闇の重圧に、大気は重々しく、陰鬱としている。
 地は小刻みに震え、低く低く悲鳴を上げ続けている。
 稲妻の壁に護られた結界の外には、葺根と慎也、久久能智(くくのち)石楠(いわくす)が視える。

「建速様!?」

「建速、美咲さんは!!」

「視つけた。こちら側から喚び戻さねばならん」

 稲妻が白い光に姿を変え、結界の内を照らす。

「呼び戻すって、どうやって」

 結界の外から不安げに見ている慎也を、荒ぶる神が視据える。

「――」

 だが、荒ぶる神が言霊を発するよりも早く、

「お使いください。全てお返しいたします」

 年老いた憑坐の器に在ってなお生命に満ち溢れた神気を持つ神が進み出る。
 大山津見命(おおやまつみのみこと)だ。

「大山津見命――知っていたか」

「娘の最後の言伝が、我らが今生で成すべきことを示してくれたのです。我ら国津神の命を以ってして母上様を黄泉より返らせるのですね」

「なんですと⁉」

 葺根の驚きの声音に、慎也の顔が青ざめる。

「どういうことだよ、国津神全部が死ぬ代わりに、美咲さんが生き返るってことか」

「その通りでございます、父上様」

「ダメだ、それじゃあ、美咲さんが泣く」

「我らのために泣いてくださる母上様を思うと心が痛みますが、今度こそ、我々が母上様にできうる幸いでございましょう。我々はこの時をずっと待って待っていたのですから」

「大山津見命――」

「心残りなど在りませぬ。我ら山津見が先駆けとなりましょうぞ」

 大山津見命の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 山津見の国津神々が呼応する。

「慎也くん!!」

 その時、結界の中から声がした。

「美咲さん!?」

 白く輝く建速の結界が、闇に染まる。
 立ち尽くす八塚の身体を見る間に覆い、黒曜石のように闇が輝く。
 そして、その間に見知らぬ子供を抱いた美咲の姿が淡く見えた。

「建速、八塚様が目を覚まさない……」

「大丈夫だ、美咲が返れば目を覚ます」

「本当? よかった……」

 八塚を抱いたまま、美咲はその場にへたり込む。
 現世と幽世が重なった結界の中で、美咲と八塚の姿は陽炎のように頼りなかった。

「何があった?」

「わからない……黄泉大神が来て……」

「闇の主が?」

「太陽の女神もいた。現世に戻れば、豊葦原は黄泉国の領界のままだって……」

「天照――やはりな」

 高天原と黄泉国が手を組んだ。おそらく、天照に従う月読もだ。
 いとも容易く闇の主に取り込まれようとは、やはり心の弱さを衝かれたのか。
 三貴神であろうとも、天照も月読も本来和魂しか持たぬ、心優しき神だ。
 創世の二神よりも太古から在る黄泉大神の巧みな言霊に抗えるはずもない。

「美咲、闇の主の言霊に惑わされるな。必ず現世に返す」

「建速を信じる。私も八塚様も生き返らせてくれるよね」

「ああ。俺の命に誓う」

「そのように容易く誓っていいものか――」

「⁉」

 美咲の背後から闇に在ってこそ美しい異形の神が姿を顕す。
 境に在る美咲には、それ以上動けない。
 どうすることもできないと知っているからか、闇の主は美咲を一瞥し、微咲(ほほえ)むと荒ぶる神に視線を移した。

「荒ぶる神よ、豊葦原に留まる限りそなたは永劫に誰とも交われぬ。ただ、過ぎ去るのみ。今生においても、そのように生きるか」

「俺の生き様をそなたが憂える必要はない」

「そなたの希みは叶わぬ。神代においても、過ぎし世においても、今生においても」

「俺を惑わそうとしても無駄だ。そなたの言霊は俺には響かぬ」

「そなたにはな。だが、響く神も在る」

 闇の主が視線を向ける。
 立ち尽くす慎也へと。

「伊邪那岐の現身よ。そなたは伊邪那美とは違う。黄泉返ったわけではない。それなのに、なぜ神代の記憶がないのだ?」

「――」

「女神が事代主に襲われたとき、なぜ、すぐ助けに行かなかった? すぐ傍にいたのに。その間、そなたは何をしていた」

「何を――」

 久久能智(くくのち)石楠(いわくす)が慎也の前に出る。

「父上様、聴いてはなりません!」

「記憶が無いのではない。現身の内に隠れているに過ぎぬ。今こそ出て来るがいい、伊邪那岐よ」

「やめろ――」

「黄泉大神と交わした誓約(うけい)を果たす(とき)が来た。そなたの言霊で、告げてみよ。伊邪那岐命」

 闇の主の言霊が慎也の身体に絡みつく。

「うあぁぁぁ――――――――!!」

 叫びとともに、慎也の身体から今までに発したことのない神気が溢れ出た。

「慎也くん⁉」

「父上様!!」

「慎也!!」

 あまりの眩しさに、神々さえも目を覆った。
 神々しく、何処までも慈悲深き神気が溢れる。
 美咲はその神気を感じた途端、溢れる想いを止められなくなった。

 心が震える。
 愛しさに、息が詰まる。

 知っている、この神気を。
 どんなに時を経ても忘れることなどできない。
 永遠を願った、唯一の――

「あなたは――」

 幽世と現世の境で、美咲が思わず手を伸ばす。
 その手に応えるように、慎也の身体は静かに結界の内側に入り込む。
 溢れ出た神気が落ち着いたあとには、慎也の姿でありながら、慎也ではない創世の男神がそこに在った。
 視返す眼差しさえ懐かしいのに、その眼差しは何処か苦しげにも見えた。

「我は、伊邪那岐――全ての創造神にして、天津国、高天原の守護を司る最古の神――」

「ち――父上様!!」

 慈愛に満ち溢れる言霊に、久久能智と石楠が感極まって平伏す。
 天津神である葺根さえも跪き、頭を垂れる。

「我らの創りし世界が闇の領界となった。古の約定に従いて黄泉国へ返れ、伊邪那美」

「⁉」

 黄泉国へ返れ。

 信じられなかった。
 慎也の顔で、声で、そのような言葉を聞こうとは。

「父上様⁉」

「何故そのような言霊を⁉」

 驚く久久能智と石楠に、伊邪那岐がそれ以上の言霊を制すように静かに手を上げた。
 ただ静かに、美咲を視返し――

「そなたが留まろうとする限り、我は、そなたを返さなければならなくなる。我がそなたを殺すなど――そんなことはさせないでくれ」

 静かに目を伏せた。
 美咲の伸ばした手は、頼りなげに落ちた。

「聞いたか、伊邪那美の現身よ。現世にそなたの在る処はないのだ。そなたの在るべき処は黄泉国しかない」

 背後から、かかる言霊。
 まるで、それしか受け入れようがないように。

「あ……あぁ……」

 息ができない。
 胸が、苦しい。

 絶望と失望がないまぜになって、何もわからない。
 心から愛した対の命が、再び自分を拒んだのだ。
 あれは夢じゃなかった。
 ただの不安でもなかった。

 あの時と同じだ。

 何度繰り返せば、気が済むのか。
 こんなにも心が引き裂かれるような痛みをどうやって受け止めればいいのか。

「……」

 縋るものが欲しくて、美咲は視線を彷徨わせた。
 だが、何もない。
 創造神の言霊を聞いた国津神達は動かない――否、動けない。
 当然だ。
 父神である伊邪那岐が、伊邪那美を拒んだのだから。
 理に従えば、本来伊邪那美は現世には在れないのだから。

「……」

 涙で、もう何も見えない。
 もう何も言えない。
 前には伊邪那岐。背後には黄泉大神。美咲には逃げ場はない。
 その時、影が動いた。
 美咲はその影を見た。

「建速――」

 荒ぶる神の大きな体躯が美咲と伊邪那岐の間に割って入る。

「――」

 荒ぶる神は無言だった。
 黙したまま慎也――伊邪那岐の胸に手を当て、そこに、神威を打ち込んだ。

「!!」

 静かに、慎也の身体が頽れる。
 抱きとめながら、慎也の身体を横たえる。

「建速様、父上様に何を――⁉」

「眠らせただけだ。心配するな」

 短く呟いて、荒ぶる神は美咲を振り返る。

「建速……」

「泣くな、美咲。大丈夫だ」

「あの人……また、私を裏切ったわ……」

「美咲」

「黄泉国へ返れって……返らなければ、殺すって!!」

「美咲、俺を視ろ!!」

 両腕を掴まれ、彷徨っていた美咲の視線が荒ぶる神をとらえた。

「……建速も、そうしなきゃいけないんでしょ? 理は絶対だから。伊邪那岐が私を拒んだのなら、私が黄泉返ることはできないんでしょう? だって、伊邪那岐は創造神なんだから。伊邪那岐の命令には、国津神も天津神も逆らえない――」

「違う。美咲。伊邪那岐が何を語っても、それは国津神の――俺の意志ではない」

 建速の大きな手が美咲の頬に触れる。

「あんたを求めて全てを捨てた。それを悔いたことはない。俺はずっと、あんたに会いたかったんだ」

 頬にかかる温かな手を、美咲は叫びだしたいのを堪えながら受け入れた。
 それは、慎也の手を思い出させた。
 自分に触れる手は、全て慎也のものだった。
 なぜ、こんなことになったのだろう。
 慎也(・・)に逢いたかった。
 触れてほしかった。
 真っ直ぐに自分を見つめて、好きだと言ってくれたら、他の誰が何を言っても傷つかなかっただろう。

 今までの日々は――あの幸せだった日々は、全部偽りだったのか。

 淡く輝く美咲の身体が揺らぐ。

「美咲!」

 絶望に呼応するように己の命が現世から離れていくのがわかる。
 死に引き返される。
 意識が遠のいていく。

「美咲、駄目だ、現世に返れ!!」

 荒ぶる神の言霊が響く。

 神気が揺らぎ、神威が満ちる。

「言霊に誓った。全ての神が敵にまわっても、俺は美咲を護る」

 陽炎のような御魂が強く抱きしめられて、途切れかけた意識が引き戻される。

「建速……」

「今意識を途切らせたら、再び黄泉返ることはできなくなるぞ。あんたは黄泉国に返ることができるのか。死の女神として、闇の主と黄泉の國産みをする覚悟が在るのか」

「そんなこと、できるわけないじゃない……」

「ならば留まれ。誰の言霊にも惑わされるな。美咲がどうしたいかだけだ」

「いいの? 私、ここにいても」

「許しが要るのか? ならば俺が許す。美咲は現世に在っていい。神代が終わるその時まで、現世の俺達の傍らに在ってくれ。それが俺の天命であり、存在意義なんだ」

「建速……建速」

 美咲は揺らがない荒ぶる神の言霊に泣きじゃくる。
 荒ぶる神はしっかりと美咲を抱きしめ、現世に引き留める。
 美咲の御魂が先程よりも存在感を増して、揺らぐことなく結界の内に留まったのを感じて、

「葺根、結界の内に」

 荒ぶる神は天之葺根命を喚んだ。

「御意」

 結界に入り込んだ葺根が荒ぶる神と美咲の傍らに控える。
 荒ぶる神は美咲から身体を離すと、一度その顔を覗き込んでから、

「美咲達を頼む」

「ご安心ください」

 結界から出た。
 右手を伸ばすと呼応するように神殺しの剣が顕われる。
 荒ぶる神と闇の主が静かに真向かう。

「理に従うそなたには、我は斬れぬ」

「そう思うか。だが、先に理を乱したそなたが許されることはない」

 神殺しの剣の一振りが大気を震わす。

「そなたの対の命は、今、我の領界に在る。伊邪那美を返せ。さすればそなたの対の命を我も返そう」

「そなたのいう俺の対とは、櫛名田のことか」

「そう。いじらしいほどにそなたを求め、黄泉返りを繰り返す女神を憐れに思うなら――」

「世迷い事をぬかすな。そなたは何故応えを求めるのだ」

 荒ぶる神が闇の主の言霊を遮り、一気に間合いを詰める。

「⁉」

 神殺しの剣が横に一閃される。
 闇の主が身を翻して跳びのき、詰められた間合いを再びとる。

「己の内に応えを求めよ。対の命とは教えられねばわからぬのか?」

 荒ぶる神の怒りに、大気が揺らぎ、稲妻が激しく轟いた。

「――」

「己の対もわからぬ者に、求める資格はない。対の命とは互いが己の内に感じるものだからだ。傍らに在っては他の誰をも必要とせぬもの、喪っては生きていけぬもの、だからこその対なのだ。伊邪那美が黄泉国から去って、そなたは正気を失ったか? 伊邪那岐のように対を追い求め、あらゆる領界を彷徨ったか? 初めから得てもいないものが対である筈がない。ならばそなたに対の命は永遠に在り得ぬのだ!!」

 怒りの神気が揺らぎ、神威が満ちる。

「奏上致す」

 風が渦巻く。
 
「理を乱す者。理を曲げる者。我は其を斬る者。古の約定において、其は滅すべき者なり」

 神殺しの剣からも、神気が揺らぎ、神威が満ちる。

「――」

 白い稲妻に、暗闇が切り裂かれる。
 闇の主は動かない。
 神殺しの剣が大きく振り被られ、地を蹴った荒ぶる神が再び間合いを詰め、闇の主に剣を振り下ろした。




「――」

 荒ぶる神が振り下ろした剣は、確かに斬った。
 だが、それは闇の主ではなかった。
 闇の主を斬るはずの神殺しの剣は、闇の主を護るために姿を顕した九十九神を斬ったのだ。

――主を傷つけることは許さぬ。荒ぶる神であっても。

 暗闇を纏い、容を持たぬ闇の集合体である九十九神が、確固たる己の意志を以って、荒ぶる神の前に立ち塞がる。
 神殺しの剣に斬られた部位は、蒸発したように白い陽炎を立ち昇らせている。
 闇の集合体であろうと神としての神格を増した九十九神には、激しい苦痛であった。
 その痛みは、闇の主にも伝わっていた。

「我を護るか、九十九神」

――お護りします。何時如何なる時も。我らの命は貴方様のもの。

 その苦痛を越える揺らがぬ意志に、闇の主は初めてその美しい容を歪めた。

――荒ぶる神よ、我々にとって主が父神。命を授けし父神を護るも理なり。

 九十九神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。
 だが、その神気も神威も不可思議に揺らめいていた。

 闇と光が混ざり合い、明滅する。
 それは闇を切り裂くような稲妻の光とは違って、闇と光が互いを慈しみ合うように調和した優しい融合の一対だった。

「これは――月の光……? 月読(つくよみ)か――?」

 闇の主の美しい琥珀の瞳が、荒ぶる神の言霊に僅かに揺らいだ。
 その揺らぎを、荒ぶる神は視逃さなかった。

「古の約定に従いて、建速須佐之男命が奏上致す。死には死を。生には生を。かつて与えし命を今、返さん」

 結界の内が、再び白い光で満たされた。
 しかし、今度はすぐに光は消え、美咲の身体が結界の中央で静かに横たわっている。傍らに佇ずんでいたはずの八塚の身体も静かに横たわったままだ。慎也も意識を失ったまま横たわっている。不思議なことに、子供の姿の八塚の御魂のみ消えていた。
 葺根と美咲の御魂が、その中で座り込んでいた。

「母上様……現世に返られる時でございます」

 葺根が空を視据えて呟いた。

「……?」

 葺根の言霊の意味が分からず、美咲は葺根の視線の先を追った。
 そこには、神々しく輝く国津神々が在った。
 結界の中に入ってくる国津神は憑坐を出て、神代の姿に戻っていた。
 美しい神気を身に纏い、神威に満ち溢れたその姿は、憶えてもいないのに懐かしく、愛おしさがこみあげてくる。
 大山津見命を先頭に、次々と国津神々が結界に入り込んでくる。
 美咲は自分の手に触れながら、礼をして結界から去っていく国津神々達を見ていた。
 結界を出た国津神は、闇に向かって飛んでいく。
 国津神の神威が闇とぶつかり合って、散り逝く花火のように煌めいては神気とともに消えた。

「ねえ――待って。神気が消えていくわ。神威を使い続けたら、あなた達はどうなるの?」

久久能智の表情が切なげに揺らいだ。

「我らは還るのです、貴女様の命の中に……」

 美咲を視つめて、石楠も微咲(ほほえ)む。
 その(かんばせ)は、どこまでも慈しみに満ちていた。

「それって、死ぬってこと……? だめよ……」

 美咲が慌てて立ち上がろうとするのを、久久能智が跪いて止める。

「ご安心ください。憑坐から出る時です。すでに、中つ国の民草は己を忘れ、我らを忘れ、そうして、我らは消え逝く神々と成り果てました」

 石楠も跪く。

「信じるものがいなければ、神など無用の長物。役に立たぬ我らが最後に捧げられるものがこの命であるなら、これ以上の喜びがございましょうか」

 すでにここには、神々が生きることを許さぬ強い力がある。
 彼らは忘れ去られた神々なのだ。
 そして、滅び逝く定めの神々だった。

「母上様……お会いしとうございました。貴女様の御還りを、我等国津神はずっとずっと、お待ちしていたのです……」

 神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 自分を愛おしむ、自分が愛おしむ、懐かしさに満ち溢れた神気だった。
 それを、全身で感じた。

 なぜ、忘れてしまったのだろう。

 こんなにも、狂おしいほどに、懐かしく、恋しいのに、なぜ、自分には記憶が無いのだろう。
 この最後の時に、かけてやるべき相応しい言葉も探せない。
 愛しい気持ちを伝えられないもどかしさで、胸がつまる。

 女神の記憶は何処に。
 彼女の本当の想いは何処に。

 溢れる思いに、美咲は胸を押さえた。
 久久能智と石楠が静かに結界を去っていく。

「お願い……いかないで……」

 そう思っているのは、自分だけではない。
 伊邪那美こそが、そう思っているはずなのに。

 神威が去る。
 神気が消えて逝く。

 激しい喪失感に、美咲は震えた。
 自分の中の、何か別のものが消えて逝く神々を悼んで泣いていた。
 記憶が無くても、美咲も泣いた。
 この身を引き裂かれるような、深い悲しみ。
 喪った子を思って泣く、それは母の涙だった。



 国津神全ての神威が消え、神気が滅した後、美咲の身体が首にかけていた勾玉が壊れた。


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