高天原異聞 ~女神の言伝~

8 天津神々


 黄泉の源泉が押し戻された。
 国津神がその命を以ってして理を覆したのだ。

――父上様、黄泉国へ返りましょう。

 傷ついた九十九神が囁く。
 未だ現世は黄泉の領界であった。
 だが、闇の主は動けなかった。
 言霊を巧みに操る自分が、荒ぶる神の言霊に囚われたことがわかったからだ。

「そなたらに力を与えたのは、夜か――?」

――すでに父上様には全てお分かりの筈。返りましょう。

 九十九神の言霊に、闇の主は抗わなかった。

「――我は動けぬ。往け」

 九十九神が闇の主を抱きしめる。そして、闇の中へ消えて往った。



「美咲!!」

 荒ぶる神の言霊に、美咲ははっと目を開けた。

「建速――」

 荒ぶる神に抱きかかえられていた美咲は、身体を起こす。
 生身の身体がある。
 生きている。
 自分が現世に返ってきたこともわかる。
 それでも、自分は未だ女神ではなかった。
 女神であるという記憶は残っている。だが、それは物語を読んだような知識と共感でしかない。
 国津神が消えてしまったのに、なぜ、神威も神気も戻らないのか。
 そして何故、現世の闇が消えないのか。
 何が足りないのだ。
 いくら考えてもわからない。

「あなたは伊邪那岐の息子でしょう? どうして私を救けるの?」

「俺はあんたの敵じゃない。伊邪那岐から現象したが、あんたの息子でも在る」

 世界は闇に閉ざされ、陽の光も月の光もない。
 建速によって護られている美咲と葺根以外に、動いている人間は誰もいなかった。
 八塚と慎也は横たわったまま動かない。
 結界は消え、少し離れた暗闇の空間にたくさんの国津神の憑坐達が同じように倒れていた。

「国津神の命を使って、私生き返ったのよね? 何故現世は暗闇のままなの? 豊葦原はどうなるの?」

「伊邪那美が返るにはまだ何かが足りないのか――」

 荒ぶる神が美咲を視つめ、次に何故か神殺しの剣を視た。

「そうだ、足りないのだ。だから、伊邪那美は顕われない――」

 荒ぶる神の言霊を遮るように、眩い光が突如暗闇を照らした。

「っ⁉」

 荒ぶる神が咄嗟に美咲を抱きしめる。
 あまりの眩さに目を開けていられない。
 美咲は目を閉じ、顔を背けて強い光が落ち着くのを待った。

「た、建速様……」

 葺根の震える声音が耳に届く。
 目を開けて、美咲は葺根を見た。
 そして、葺根が視ているものを見た。

「――」

 そして、葺根の驚きを理解した。
 国津神々の憑坐が皆起き上がっていた。
 だが、それは国津神ではなかった。人間でもなかった。
 神気が違う。神威が違う。
 姿形は同じでも、全く別の神々だった。
 たくさんの憑坐の中から、前に進み出たのは、天津神の巫女神――美咲達には馴染み深い、天之宇受売命(あめのうずめのみこと)の憑坐であった。

「国津神が神去ることにより、天津神が参りました。母上様」

 そう告げて跪いたのは、正しく宇受売だった。

「宇受売――天津神の先駆けか」

「建速様、国津神が神去りし今、天津神が豊葦原に降りました。高天原の総意をお伝えするために」

「天津神の総意だと? それならば天照が降ればいいこと。疚しきことが在る故、姿を顕さぬのか」

「そのようなもの、在る筈がない」

 天津神々が脇へ避ける。
 その中を進んで来たのは太陽の女神だった。
 少し下がって傍らに控えているのは美里と莉子の憑坐だった。
 明らかに天津神が降りていた。

「天照」

「建速よ、豊葦原が黄泉国の領界より解き放たれぬ以上、高天原は母上様の帰還を認めぬ」

「それを聴いて俺が従うとでも?」

「それ故、天津神全てが降ったのだ。何としても、母上様には黄泉国にお返り頂く」

 莉子と美里が前に進み出る。
 美里の中に在る神が手を伸ばすと美しい剣が顕れる。

「それは――」

「覚えておられますか。これは神剣草那芸。八俣遠呂智より出るもの。遥か彼方となった過ぎし神代で御身が高天原に献上した御刀(みはかし)でございます」

 美しい剣から神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 その途端、葺根が倒れ込む。

「く……う……」

「葺根よ、天津神で在りながら、高天原に叛くなど許されぬ。暫し眠っているがいい」

 その言霊に、葺根は頽れる。

「さあ、荒ぶる神よ。母上様を御渡し下さい。貴方様がいくら貴神と云えども御独りでは太陽の女神と天津神の全てを敵に回して闘えるとは思えませぬ」

 荒ぶる神は、美咲に視線を向けた。

「美咲、どうする。あんたが許せば、俺は闘える」

「天津神を殺さないと、誓ってくれる?」

「誓おう」

「では、許すわ」

 荒ぶる神は微咲(わら)って天津神に向き直る。その手には神殺しの剣が顕現する。

「思兼、俺の剣を覚えているか?」

 美里の中の思兼の容が色を失くす。

「天之尾羽張!! 何故御身が高天原の神剣を!?」

 神代の時代に伊邪那岐が火之迦具土を斬った御刀。
 それが、今荒ぶる神が持つ神殺しの剣だった。

 荒ぶる神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

「無駄だ。そなた達全てでも俺には勝てん。これに斬られれば、天津神とて死すべき定めから免れぬ。神代が戻りし今この(とき)、神去ることを望むというのか」

 荒ぶる神の言霊に、神々が畏れをなす。
 太陽の女神の無慈悲な言霊が、怯む天津神に無情に響く。

「よかろう。ならば斬って視せよ。斬れるものならな」

 太陽の女神の神気が揺らぎ、神威が満ちる。

 その手に、黄金の錫杖が顕われる。

「天照、よせ」

「天津神の――高天原の総意と申したぞ、建速。この私を斬り捨てよ。さすれば退いてやる」

「なりませぬ、天照様!!」

「御身は高天原のみならず世界に在らねばならぬ唯独りの神なのですぞ!!」

 宇受売と思兼が必死で言霊を継ぐ。
 だが、太陽の女神の眼差しは強い覚悟で満ちている。

「すでに豊葦原は黄泉国の領界となった。太陽など必要ない!!」

 太陽の女神が地を蹴った。黄金の錫杖を振り被り、荒ぶる神へと大きく振り下ろす。

「!!」

 荒ぶる神が、神殺しの剣で受け止める。

「建速!! 天照、やめて!!」

 美咲が叫ぶ。
 駄目だ。荒ぶる神と太陽の女神を闘わせてはならない。
 対の命同士が闘うなど、在ってはならないのだ。
 だが、その時、

「美咲さん!!」

 慎也の声がした。
 美咲が振り返ると同時に強い力で、痛いくらい抱きしめられた。

「――!!」

「よかった!! 戻ってきたんだ!! 逢いたくておかしくなりそうだった――」

「――慎也、くん?」

「もうどこにも行かないで。俺の傍にいて」

 神気も神威も感じられない。
 慎也だ。

「慎也くん……本当に?」

「本当だよ。何でそんなこと聞くの? 美咲さんがいない間、俺のほうが生きた心地しなかったのに」

 抱きしめていた身体をほんの少し離して、慎也は美咲を見下ろした。
 その眼差しは、神ではない、いつもの慎也だ。

「慎也く……」

 慎也の顔が近づいてきて、くちづけられる。
 安堵に、泣きそうになる。
 温かな唇の感触に、目を閉じたその時――

「⁉」

 美咲の首に突然圧がかかった。
 目を見開くと、慎也が首を絞めているのが見えた。
 首にかかる圧力を押し退けようと腕を上げかけて、押さえ付けられたように身体が動かないことに気づいた。
 美咲は、恐怖と驚愕で混乱した。

「いや……慎也、くん……」

 その言葉に、首を絞めていた力が一瞬緩んだ。
 次の瞬間には、再び唇を塞がれた。
 口内に何かが入ってくる。
 息も出来ないのに、更に口内を探るねっとりとした感触が美咲の舌に絡みつき、息もつかせない。

「……んぅ……」

 苦しさに、美咲は喘いだ。

 慎也ではない。

 否――これは、人ではない。
 この気配――神気は、神のもの。
 すぐに首を絞める力は強くなり、首が圧迫されて、頭に血が上る。

 苦しみと悲しみで、涙が零れる。

「……」

「何故、思い出してしまったのか――思い出さねば、我々は現身の内でともに在れたものを」

 それは伊邪那岐の言霊だった。
 自分のものではない懐かしさが胸を締め付ける。
 朦朧としていく意識の中、それだけは悟った。

「伊邪那岐!! よせ!!」

 強い言霊とともに、荒ぶる神の神威が慎也の背後に撃ちつけられた。

「!!」

 その衝撃で、慎也とともに倒れ、美咲の身体は自由になった。
 圧迫されていた喉から空気が入ってくる。美咲は咽返りながら、息をした。

「……うぅ……」

 傍らに倒れていた慎也の呻き声が聞こえた。

「美咲!!」

「父上様!!」

 荒ぶる神が美咲を起こす。太陽の女神と巫女神が慎也に駆け寄る。

「大丈夫か」

「……」

 返事ができなかった。
 身体を起こされた慎也は、訳が分からず、支える太陽の女神と宇受売から逃れて、美咲のもとへ行こうとする。

「そばに来ないで!!」

 悲鳴のように美咲が叫んだ。その声音の強さに、慎也が驚いて動きを止める。

「美咲さん――? なんで……」

 慎也が困惑して美咲を見つめている。
 宇受売が、小さく言霊をかけてから、以前そうしたように慎也の額に己の額を合わせる。
 自分のしたことが脳裏に刻まれていく。それに耐えきれず、

「嘘だ!! なんで、こんなこと!!」

 無理やり宇受売から体を離して美咲を振り返る。

「美咲さん、こんなの嘘だ。伊邪那岐は、伊邪那美を愛してる!!」

「嘘よ。ならどうして黄泉国に返れなんて言うの? 愛してるなら、返れなんて言わないはずよ」

「愛してるよ。だから、こうして生まれ変わったんだ」

 常にない荒っぽい言葉が、慎也の苛立ちを如実に表していた。
 スイッチが切り替わるように自分の想いとは真逆の言霊を語る伊邪那岐に、慎也こそおかしくなりそうだった。

「美咲さんに逢うためだけに、生まれてきたんだ。美咲さんに出逢うまで、生きてたって、死んでるみたいだった。美咲さんに逢って、生まれて初めて生きてることが嬉しいって、幸せだって思えたんだ。記憶なんかない。それでも、憶えてる。美咲さんを愛してる。美咲さんがいてくれれば、他の何も要らないんだ。今の俺には、それが本当なのに――」

「――」

 この人は、私を愛している。
 その心がわかる。
 だが、伊邪那岐の心はわからなかった。
 愛しているなら何故、黄泉国へ戻そうとするのか。

「ねえ、どうして……」

 ほんの一瞬だった。

「わからぬのか、伊邪那美。誓いは果たされねばならない」

 それは、慎也の言葉ではなかった。
 伊邪那岐の言霊だった。
 立ち上がり、歩み寄る。

「伊邪那岐……」

 心が、震える。

 その言霊を、神気を感じるだけで駆け寄って、縋り付きたい。
 愛しいと、魂が叫んでいる。
 込み上げる衝動に、息が出来なくなりそうになる。
 こんなにも、伊邪那美は愛していたのだ。

「誰の誓いなの、それは? 貴方のであって、私のではないわ。どうして、それがわからないの? 私は伊邪那美じゃない。生まれ変わった、ただの人間なの。なのに、私がしたのでもない誓いを、なぜ果たさなければならないの?」

 これ以上、顔が見れない。
 激しい想いに、身動きがとれなくなる。
 こんなのは、違う。
 こんな想いを、自分は知らない。

「私を、放っておいてよ。ただ、普通の人間として、生きていたいのよ。今までもそうだったように、これからもそうしたいの」

「美咲さん?」

「……」

 今度は、慎也だった。
 彼にとっては今のことさえ何の記憶にもないのだろう。
 意識を奪われたことさえ気づいていない。
 美咲の瞳から涙が零れた。
 傷ついた顔の美咲を見て、慎也はまた自分の中の伊邪那岐が顕われたことを悟った。
 一歩、美咲に近づく。

「傍に、来ないで……」

「イヤだ」

 同じ瞳が、自分を愛おしげに見つめて、裏切りの言霊を吐く。
 混乱する。
 どちらが本当の慎也なのか。

「何度、私を裏切るの?」

 美咲の言葉に、慎也はそれまでの距離を詰めて美咲を抱きしめる。
 抱き縋って、必死で言を継ぐ。
 そうしないと、美咲を喪ってしまうかのように。

「俺は裏切らない。今、ここにいる俺は――時枝慎也は、絶対に美咲さんを裏切らないよ」

 抱きしめられても、苦しいだけだった。

「伊邪那美、我を許せ――」

 はっと身体を強張らせる。

「誓約を果たさねばならぬのだ。約定に縛られ、我は身動きがとれぬ」

 苦しげな言霊は、真実だけを告げていた。
 愚かにも交わした言霊が、全ての元凶だと気づいているから。
 それでも、どんなに悔やんでも誓約を覆すことは出来ないのだ。

 降りしきる薄紅の花弁が視える。
 どんなに叫んでも振り返ってくれない背中。
 あの時感じた絶望が押し寄せてくる。
 置き去りにされる恐怖と憎悪さえ。
 あまりに深いその感情に、耐えられない。

「……いや……」

「美咲さん――?」

「こんなのいや……」

 憎しみが全てじゃなかった。
 愛していたのだ。
 愛しい。
 愛しい。
 こんなにも、貴方を愛している。
 ずっと待っていた。
 貴方にもう一度、出逢える日を。

 だからこそ、返ってきた筈なのに。

 それでも、それだけではもう駄目なのだ。
 置き去りにされた怒りと憎しみも思い出してしまったから。
 愛するだけでは駄目なのだと。
 記憶が戻るたびにもどかしい思いだけが心の中を満たしていく。

「こんな記憶、いらない……」

 愛するだけではいられない記憶を、美咲は拒んだ。

「美咲さん……」

「こんなに苦しむなら、いっそ貴方の手で終わらせて。私を、本当に愛しているなら」

「駄目だ!! 美咲さん、言うな!!」

 伊邪那岐に聴かせまいとするかのように美咲から手を離し、耳を押さえる。

「いつも思い切れないのね。私を拒みながら、最後にはためらうの」

 美咲はどこか虚ろに呟いた。

「なら、あの時、はっきり言ってくれれば良かったのに。お前は神去ったのだから、黄泉大神の妻となれと。真向かって、貴方の言霊を聴いたなら、こんなに苦しむこともなかったのに」

「やめろ、違う!!」

 慎也が顔を上げた。

「黄泉神に渡せるわけない!! 美咲さんは俺のものなんだ。俺だけのものなんだ!!」

 蒼白な顔で叫ぶ慎也に、美咲は微笑(ほほえ)んだ。
 慎也の言葉を信じたいのに、伊邪那岐の言霊が頭を離れない。
 どうして自分達は、このようにすれ違ってしまうのか。
 断ち切る術を探せない、この隔たりが、今の自分達なのだ。

「もう、終わりよ……」

 美咲は一歩下がった。
 一歩、また一歩。
 背中が優しく触れた。
 振り返ると、荒ぶる神が立っていた。

「建速――」

「美咲」

「建速、私を連れて、逃げてくれる? 何処までも」

「あんたが、そう望むなら」

 即答だった。
 建速は迷わない。
 違えない。
 国津神も、そうだった。
 それなのに、一番聴きたい男の言霊は、ついぞ聴けなかった。

「――」

 それ以上何も言えずに、美咲は建速に縋り付いた。
 荒ぶる神が剣を持っていない方の手で、優しく美咲を抱きしめる。

「駄目だ、美咲さん、行かせない!!」

 引き留めようとする太陽の女神と宇受売を振り切り、慎也が駆け寄り、荒ぶる神の腕を掴んだ。
 剣を持つ、その腕を。

「慎也、今は退け」

「駄目だ、今行ったら、美咲さんは俺のところには戻ってこない。もう二度と、戻らないつもりで一緒にあんたに逃げてくれって言ってるんだ」

 美咲は、涙が込み上げるのを押さえきれなかった。
 だって、もう、何もない振りをして一緒にはいられない。
 一緒にいられないのなら、慎也から離れなければならない。
 互いの記憶が、互いを苦しめ、疑わせ、傷つけることがわかっているのだから。

「美咲さんは、何処にも行かなくていいよ。明日から、いつも通り生きられる。もっと早く、こうすればよかったんだ。こんなに美咲さんを傷つける前に」

 背中にかかる優しい声に、美咲は違和感を憶えた。
 なぜ突然、慎也はそんなことを言い出すのか。
 そっと、振り返った。
 慎也は笑っていた。
 荒ぶる神の腕を掴んだまま。

「――」

「俺が、死ねばいい。そうすれば、密約は意味をなさない」

 慎也の言葉に、荒ぶる神が腕ごと剣を引く。
 だが、慎也の方が早かった。

「父上様!!」

「伊邪那岐様!?」

「慎也、よせ!!」

 神殺しの剣が、身を乗り出した慎也の喉を滑り、掻き斬った。

「慎也くん!!」

 前のめりに倒れかかる慎也を、美咲が抱きしめる。
 生暖かいものが、胸元を見る見る濡らしていく。
 それが、慎也の血だということは疑いようもなかった。
 支えきれずに膝をつく。

 信じられなかった。
 伊邪那岐は、黄泉国へ還れと言ったのに、記憶のない慎也は、それを止める。

 裏切らないと言った慎也の心は、本物だった。
 信じなかったのは自分だ。
 また、自分は愛しい者を喪うのか。

「美咲さん……美咲、さん……」

 慎也が震える手で、顔を上げて、美咲を見据えた。
 頬に触れようと伸ばした手が血に濡れていて、慎也は触れるのを諦めた。
 二人ともすでに上半身は血塗れだった。
 それでも、慎也の顔は、血の気を失い蒼白だったが、綺麗だった。
 愛しげにじっと見つめながら、堪えきれずに背中から倒れていく。
 背後にいた天照が咄嗟に抱き留める。

「父上様!!」

 天照の叫びも耳に入っていないようだった。
 ただひたすら、美咲を見据えて。

「美咲さん、忘れないで……俺が、いつでも大好きだったこと……」

 慎也の手が、力無く落ちた。

「駄目……駄目よ、こんなことのために、黄泉返って来たんじゃないわ……こんなこと、伊邪那美は望んでない……」

「月読は何処だ。変若水を!! このままでは、父上様が神去ってしまう!!」

 太陽の女神の、常にない脅えた言霊に、応えはすぐに返った。
 闇の中に、一筋の淡い光が差し込む。
 その光の階を降りてくるのは、月神であった。
 夜着の上に漆黒の闇を纏うその姿は艶めかしく、(みづら)を結わぬ下ろした髪は、月神を女神のようにも視せる。
その美しさは、闇の中に在ってこそ際立っていた。

「月読、そなたの神威が必要だ! 父上様を死より返すのだ!!」

 天照の言霊を理解すると、美しい容が苦痛を堪えるかのように歪む。

「父上様――」

 意識のない慎也の傍らに跪く。
 美しい瞳から流れた涙が指先で拭われ、慎也の傷口に当てられた。
 途端に、血は止まり、傷口さえ塞がれた。

「父上様、お返り下さいませ――」

 そうして、呼吸の止まった慎也の唇を己のそれで塞ぎ、息を吹き込んだ。
 血の気の失せた顔色は戻り、ただ眠っているかのようにも見えた。
 だが、意識は戻らない。鼓動も返らない。

「命が、返って来ない――」

「何故返らぬ? 月読の変若水ならば返ってくるはず!!」

「父上様は、ご自分の意志で返らぬのでしょう」

 小さく月神が呟いて、美咲を視返す。

「どういうことなの……?」

「私の変若水は、身体だけを生き返らせたのみ。身体が返れば、命も戻ります。ですが、父上様には、返る意志がないのです。命はすでに黄泉路へ往かれたのでしょう」

「そんな……」

 月神は、何処か苦しげに視えた。
 美咲は、なぜだか月神を抱きしめ、護ってやりたい衝動にかられた。

「月読命……救けに来てくれてありがとう」

 思わず出た言葉に、月神は、僅かに驚いたような容で、美咲を視つめた。

「私は、もうこの諍いに介入することはできませぬ。なれど、母上様」

 言霊を切り、月神は美咲の手を取った。

「終わらせて下さい。貴女様なら出来る筈。どうぞ全ての終焉を――」

 月神の手から伝わる、切ない想い。

 終わらせたいのは、断ち切ることの出来ない執着なのか。

 かつて、自分に同じ願いを口にした神がいた。
 自分でなければ終わらせることが出来ないと。

 自分は何者か。

 その問いの答が、今、わかった。

 全てを終わらせることの出来る者。
 終焉の音を鳴らす者。

 それが、伊邪那美なのだ。

(とき)が来た――最後の(とき)が」

 言霊が響いた。

「!?」

 建速の持つ天之尾羽張(あめのおはばり)から、美しい炎があがった。
 その眩さに、神々達は皆目を閉じた。
 血のように赤く輝く炎が、美咲の身体を包み込み、その姿を消してしまった。

「美咲!?」

 目を開けた時、神々の前から、美咲の姿だけが消えていた。


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