高天原異聞 ~女神の言伝~
「私は、貴方と一緒には往かない――」
そう告げるかつての女神を、黄泉大神は暫し視つめた。
その言霊を聞くまで、今日までかかった。
永遠に彼を拒む、女神。
黄泉大神は伸ばした手を、静かに下ろした。
「では、誓約はもう意味をなさない。貴女は自由だ。何処へなりとも望むところにとどまるがよい」
その言霊に、女神の現身は驚いたように問い返す。
「――そのように容易く、諦めるのですか?」
「容易いと、思っているのか? 我は貴女が黄泉に降られてより、今日この刻まで待ったのだ。その重みを、貴女は知るまい」
「……」
黄泉神は、ただ諦めたように咲うのみ。
「黄泉国のために、貴女が欲しかった。だが、本当はわかっていたのだ。貴女は決して我と真向かおうとはしないことは――」
伊邪那美は、決して伊邪那岐を忘れなかった。
伊邪那岐も、伊邪那美とともに在るために神去ることを躊躇わなかった。
だからこそ、誓約したのだ。
自分は賢しい諌言を用い、伊邪那岐から伊邪那美を奪った。
伊邪那岐は言霊に縛られ、伊邪那美は犠牲になり、そうして何を得たのだ。
何も得られはしなかった――真に欲するものは、何もかも。
伊邪那美は自分を拒み通し、決してこの手には入らない。
そして、伊邪那美はすでに、死の女神でもない。
彼女を縛る言霊は、誓約は、最早意味を成さない。
それでも、待っていた。
叶わぬと心の何処かで諦めていても、待たずにはいられなかった。
それしか、なかったから。
だが、本当に、それしかなかったのか。
自分は、何かを間違えたのではないか。
愚かな幻想に執着し、真に得られるはずの何かを、逃したのではないか。
不意に、空を仰ぐ。
闇の中でもなお美しい、一際冴えて輝く月を捜す。
だが、闇に閉ざされた黄泉国にも豊葦原にも、光はない。
静寂と寂寥と孤独と死。
それならば、すでに黄泉国の内に在る。
それを越える何かを、求めた筈なのに。
「光を知らぬこの黄泉国で、貴女が唯一の光になってくれると信じていたが」
「黄泉大神――」
「我には過ぎた光だった。貴女には、闇は似合わぬ。そして我にも、その光は輝《かぐ》わしすぎる。所詮、我々は相容れぬ者同士。そのことを思い知るまでに、なんと永き時を経たことよ」
世界の全てを手にしたとして、それが何になるだろう。
自分の孤独は、変わるわけではない。
世界がほしかったわけでもない。
黄泉国に在ってなお、ともに寄り添ってくれる愛しい者こそが、必要だったのだ。
望んだわけでもない場所に独り現象し、そうで在り続けることに、この異形の神は何処か疲れ果てていた。
「伊邪那岐はこの先に在る。往くがいい」
「ごめんなさい。ありがとう」
女神らしからぬ仕草でぺこりと頭を下げて、創世の女神は向きを変えて走り去っていった。
その後ろ姿を視つめ、闇の主は呟く。
「だが、貴女を欲しいと願ったのは、譎りではなかった。かつて抱いた想いは決して――」
彼の神もまた、伊邪那岐のように、女神に慮がれていたのだ。
全ての命を生み出す、美しき地母神に。
命を孕む彼女がいれば、黄泉国もまた、神々が恋うる豊葦原のように在れるかもしれないと。
それでも。
共に生きていけないことはわかっていた。
彼女は自分の対の命ではない。
彼女の対は、すでに定められていた。
その理に抗ってでも欲した。
夜の闇の中で愛しさを隠さず交合う二柱の神を視てから、全てを許し、与え合う半神を、自分も欲しかった。
それは、永遠の対を持つ、伊邪那岐への嫉妬だった。
自分の対の命が在ると信じられなかった自分は、死の女神となった伊邪那美こそが自分の対になると信じ込んだ。
日狭女でさえもわかっていたのに、自分にはわからなかった。
伊邪那美を待つことで、美しい夢を視続けていたかったのだ。
だからこそ、この夢は美しいまま終わるのだと、異形の神は省みる。
けれどそれは、なんと甘美な夢であっただろうか。
所詮叶わぬとわかっていても、夢視ずにはいられない。
甘く切なく、静かだけれど狂おしい、彼の神が視たのは、そんな永遠の中の、刹那の夢だった――
暗闇の中を走り続け、ようやく美咲は前方を歩く慎也の姿をとらえた。
「慎也くん!!」
美咲の呼びかけに、振り向いた慎也の顔は驚きと戸惑いが如実に表れていた。
「戻って、慎也くん」
「戻れない。俺は、もう死んだから」
「死んでない!! 死ぬなんて、許さない!!」
「美咲さん――」
「考えもなく、うんって頷いたのが原因でしょ!? だったら、戻って責任とりなさい!! 死に逃げなんて絶対許さないから!!」
呆気にとられる慎也に、美咲は慌てて否定する。
「ごめん、今のは、伊邪那岐に言ったの。慎也くんじゃないから。それに、慎也くんは死んでない。月読命が救けてくれたの。だから、戻って」
慎也の手が、美咲に触れようとして止まる。
拒絶されるのを怖れるように。
「俺のこと、許してくれる?」
「慎也くんに、許せないところなんてないよ。慎也くんの気持ちを疑ってごめんね。私のほうこそ、許してくれる?」
慎也の手が、ようやく美咲の頬に触れる。
その手に、自分からも手を重ねる。
この手に触れるために、自分はここまで来たのだ。
「いつもの美咲さんだ……逢いたかった」
「うん。ずっと待たせて、ごめんね」
慎也が美咲を抱き寄せる。
美咲は抗わずに、その胸に身体を預けた。
「伊邪那岐への、最後の言伝なの。それを聞くためにも、戻ってきて」
「わかった」
答えた途端、慎也の身体が透けていく。
「美咲さん……」
「待ってて。今度は伊邪那美が往くから」
美咲の言葉に、慎也は微笑んだ。
「待ってる」
何かに引かれるように、慎也の姿は消えていった。
「そなたは私の高天原を混乱に陥れた。あの時のことは一生忘れぬ」
沈黙に耐えかねたのか、太陽の女神が呟く。
その言霊に、荒ぶる神は得心したように言霊を返す。
「あれはお前が悪い。せっかく逢いにいけば、何のかんのと理由をつけて決して俺と逢おうとしないお前に腹を立てたんだ。騒ぎになれば、お前が逢いに来てくれると思ったのさ」
「それで私の気に入りの織女を天之斑駒なんぞに奪わせたのか!?」
「神御衣を織る織女は処女でなければならんなどとするからだ。織女と斑駒は相愛だったのに、神御衣なんぞ織らされて、もう何年も斑駒は織女に妻問いしては泣く泣く拒まれるはめになっていたんだ」
神御衣を織る乙女は清らかでなくてはならず、織女はその名の如くに機を織ることにかけては右に出るものはいなかった。
その才能が災いして、彼女は常に太陽の女神の御衣を織る役目を仰せ遣っていた。
役目を辞せずにいる織女も、妻問いを断られる斑駒も困り果てていた。
そこで荒ぶる神は嘆く斑駒に言った。
本当に欲しいのなら奪うがいいと。
荒ぶる神の言霊通りに、斑駒は織女を奪った。
交合い、奪うことで、『織女』を『殺した』のだ。
そして、太陽の女神は天岩戸に籠もる。
思兼の策に嵌った月神と荒ぶる神は、その後高天原を追われた。
「高天原で、織女は不幸なのか?」
「忌ま忌ましい斑駒と大勢の子等と、今も仲睦まじくしておるわ」
太陽の女神の言霊に、荒ぶる神は咲った。
「ならばいい。対の命とともに在れれば。対の命と引き裂かれるより辛いことはない」
「そなたが言うのか。豊葦原では櫛名田を娶ったであろうが」
「櫛名田は、お前に似ていた。遠く及びはせんがな」
「――よくもぬけぬけと」
「本当だとも。今までに多くの女を愛しんだが、お前にかなうものはいなかった」
荒ぶる神が、太陽の女神の手を取る。
「天照、俺はずっとお前に逢いたかった」
「建速――」
「伊邪那美は伊邪那岐に逢い、俺の役目は終わった。今は、お前のところへ還りたい」
譎りのない言霊に、太陽の女神の容が強ばる。
「――櫛名田も、現世に転生しておる。しかも、そなたの傍に今も在るではないか」
「気づいていたのか」
「気づかぬわけがない。魂の色が、いつの世とて変わらぬ。交合いによって契りを交わしたなら、そなたからは離れられぬ。一時離れても、必ず戻るものだ」
「それでも、俺はお前がいい。いつでもお前が欲しかった。櫛名田ではなく、お前が俺の、対の命だったから」
櫛名田比売。
荒ぶる神が、豊葦原中国で出会った乙女。
天照大御神に面差しを似せた、美しい乙女だった。
救うと、護ると、誓いながら果たせず、遠呂知の眷属となり、死んでは黄泉返る定めを負った女神。
そして、理に従って記憶も神威も神気も失い、只人となった。
だからこそ、今生では女ではなく、男として黄泉返った。
私を、忘れないで。
愛しています、愛しい方。
生まれ変わっても、建速様のお傍に。
何度も重ねられた願い。
それは黄泉返るたびに忘れ去られてゆく約束。
「櫛名田が死ぬとき、約束した。黄泉返りしたその魂をきっと迎えに往くと。俺は何度も黄泉返りした櫛名田を視出だし、妻にした。
だが、櫛名田は黄泉返るごとに俺を忘れていった。
そうして、いつしか俺の名前まで、思い出せなくなっていった」
最後に櫛名田比売を視出した時、彼女はすでに連れ合いを持っていた。
子も身篭もっていた。
荒ぶる神を忘れ、幸せそうに暮らしていた。
それ以後、荒ぶる神は櫛名田比売を探さなかった。
何度時が過ぎて巡り合っても、妻問いしなかった。
「どれほど転生し、返っても、それは同じ魂ではあるまい。俺が憐れに思った櫛名田はすでに神ではない。人間として黄泉返りを重ねるごとに魂の記憶すら失われた。俺はうつろうものを愛するにはあまりにも別れを多く視過ぎて来た。どれほど愛しても同じように生きられぬ虚しさを知ってしまった」
忘れないでと。
生まれ変わる自分を視つけてくれと。
妻だった女は生まれ変わるたびにそう言った。
誓いを口にするとき、それは確かに美しい言霊であっただろう。
けれど、彼女等は知るまい。
忘れ去られる痛みを。
失ってしまった愛を。
忘れる。
それは、初めから何もないのと同じことだ。
約束は泡沫と消え、荒ぶる神はすでに拠り所を持たぬ彷徨える神でしかなくなった。
そして、永い時を彼は伊邪那美を求めて流離う。
その身一つで、時を止めたままで。
彼は老いぬのだ。
御治がその身を現世に止めてしまう故に。
まるで時間など意味をなさぬかのように。
それでも、何度櫛名田比売の黄泉返りと邂逅しただろう。
ある時は、女で。
ある時は、男で。
ある時は、子供で。
ある時は、老人で。
いつの世も変わらず愛しく憐れなままだったが、すでに互いの時間は大きくかけ離れていた。
愛した者を失い、またようやく視出しても、人の時間はなんと速く過ぎ去ってしまうのか。
ともにいられる時間のなんという短さよ。
果たされぬ約束。
叶わぬ願い。
それすらもおいて、時は流れてゆく。
「だが、それが青人草なのだ。それが人の世の理なのだ。それを知るまでに何と永い時を彷徨ったことか」
世界が突然に光を取り戻した。
雲間の陽光が影を追い払うように、音もなく闇が引いていく。
熱を伴わない光は、あらゆるものを視透かすように白く、限りなく白く広がっていった。
そうして地上から闇を駆逐し、影さえも追い払い、全てをもとに戻した。
美しい、瑞穂の国と呼ばれた豊葦原が本来の姿を取り戻していく。
天津神々が感嘆とともに変わりゆく豊葦原の中つ国に心奪われていた。
荒ぶる神は、目を細め、懐かしいものを視るように世界を視つめた。
眼前に広がるは大気の流れによりそう雲海。
眼下には瑞々しい緑とくすんだ色合が重なる編目の町並み。
何事もなかったかのように世界はにわかに動き始める。
そこに、彼らは必要なかった。
神とても、無用の長物なのだ、すでに。
それこそが人の営みなのだ。
「豊葦原は美しい。
全てが失われても、やがてそこには新たな生命が芽生え、何度でも続いて往くだろう。
だが、それは再生する美しさだ。
不変ではありえん。
巡り来る時を何度繰り返そうとも、どれ一つとして、同じものなど在りはしないのだ。
今この地に根を下ろす、名もなき草でさえ。
それは見事で在りながら、いっそ憐れにも思われる」
人と時を同じくせぬ神の身に、人世の時の流れは、あまりにも速すぎる。
「天照、俺はうつろわぬものを愛したいのだ。
不変のもの。再生せぬもの。そして唯一のものを。
俺をおいて全てが変わりゆくこの豊葦原で、唯一俺を慰めたのは、お前の輝きだけだ。
お前だけは、この永い、我々にとっては意味のなさぬ現世の時間の中でうつろわぬ。
俺は高天原に還りたい。
お前の許へ、還りたい――」
「建速――」
荒ぶる神と太陽の女神は、それ以上の言霊もなく、ただ目合うのみ。