遠吠えクラブ
 そして美夏も一時のマリッジ・ブルーから立ち直ってよかった。

 独身時代から、作りたいと思った料理はどんな複雑なプロセスも厭わず、電熱器ひとつしかないワンルームのキッチンでプロはだしの料理を作り続けて周囲を驚愕させてきた美夏。

 男性の手を握るより、台所でフライパンを握っているほうが萌えるという料理オタクで、よく見ると整った顔立ちなのにまるで男っ気のなかった彼女が、三十なかばにしてようやく一生、自慢の手料理を食べさせたいと思う相手を見つけたのだ。料理人魂のマグマが噴火しっぱなしだったのは無理もない、と千紘は思う。

 ところが最初の頃、張り切りすぎたせいか、珍しく味付けを間違えてそのまま出してしまった。

 遅れて食べ始めてやっと、口が曲がるほどしょっぱいことに気づいて愕然としたが、聡は平気で食べていた。

「僕、子供の頃から何を食べてもまずいと思ったことがないんだよ」
という衝撃の告白を聞いたのはその時だ。

 それは、何を食べても特別おいしく感じないのとほぼいっしょではないか。へなへなと座り込みたくなるほどショックを受けた美夏だったが、

「少しずつ、違いがわかってくれればいい」
と気持ちを切り替え、以前にも増して熱心に料理を整え、そのレシピの工夫ポイントや味付けの極意を熱く語った。

 しかし
「おいしい?」
と聞くたびに聡は無口になっていき、美夏の料理語りはいつしか、寂しい一人語りになっていったという。

「僕、晩御飯は外で食べて来ていいかな?」

――ある時、聡が思いつめた顔でそう懇願するに及んで、美夏は、食卓での料理に関する会話を封印した。
< 28 / 78 >

この作品をシェア

pagetop