愁歌
     出発
平沼裕子は大学の英文科を卒業した後、国際線キャビンアテンダントとして航空会社に就職したが、彼女が二十七歳になった時、父親が癌で余命半年と医師から宣告された。
大学時代は東京都内で過ごし、航空会社の社員となってから千葉に移り帰省するのが遠のいていた。
父への哀慕と過ぎ去った時間を取り戻そうと、裕子は郷里の和歌山に戻ることを決めた。
突然退職して帰郷した娘を訝った父であったが、裕子の心を察知するには時間を必要としなかった。 
が、敢えてそのことには触れず、父親も自分の死期を悟っていたのだろう、素直に一人娘の気持ちを受け入れた。
裕子が戻ってから七ヶ月後、桜の花が春の嵐で散りゆくように、四月半ばに父親は六十歳の生涯を終えた。
常に夫に寄り添って生きてきた母親は死を受け入れられず、日を追うごとに衰弱していくように傍目には映った。
父親の生命保険と遺族年金で母娘は生活に困ることはなかったが、愁嘆している母のためにも、新たな生活リズムを作ろうと裕子は思った。
初盆が過ぎて人の出入りも落ち着いた頃、彼女は新聞の求人欄で見つけた英会話スクール和歌山校のマネージャーに採用された。
大阪に本部がある英会話スクール・ヴィクトリーは近畿に二十校あり、彼女が勤務する和歌山校は、マイク、エドワード、パトリシアの三人のアメリカ人講師が勤務していた。
 大阪本部での一週間の社員研修は、大会社と中小企業との格差を裕子自身、身を持って体験した。
 「本部に粕を送金するマネージャーは最低です。そんな人間は要らない」
 研修で開口一番、社長の言葉だった。
 当初、裕子には社長が言わんとすることが理解出来ずにいた。 
しかし、研修とは名ばかりで、生徒から集める授業料から和歌山校の家賃、運営費、雑費を差し引いたお金を、如何に沢山本部送金するかについてであった。
 一週間、早朝から夕刻まで繰り返される同じ議題に、彼女は航空会社という大企業に勤めた自分の誇りが、次第に壊されていくように思えた。
 和歌山に戻り退職する森川理世との引継ぎを終え、和歌山校マネージャーとしての仕事が始まると、まず、パトリシアがクレームをつけてきた。 
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