魚が空を泳いだら
郁は彼の背中に声を投げかけた。掛けられずには、いられなかった。絵の中の蒼が実体を持って世界を染め上げていく。彼は背中を向けた儘、生返事だけを緩く返す。素人からすれば、もう塗る箇所が無い青に深い色を塗り重ねていく。
「何で、そんなことを考えるの?」
落とされる沈黙に、気まずくなった彼女は口早に言葉を滑らせる。
「ほら、魚が空を飛ぶなんて、考えないでしょう普通はさ」
自由だと思われている世界はいつだって既成の物だ。がちがちに固められた世界の常識を少しずつ大人達は子供に食べさせる。それは何れ血液循環の中に取り込まれ、毒薬のように、蝕まれて逝く。なのに、貴方は。貴方は。
「違うよ」
少年は静まり返った白に、色を優しく優しく落とす。遠くから聞こえてくる野球部の掛け声は水中で聴いているかの様な曖昧な音色で。
「本当に魚は空を飛べるんだ」懇願する音。翼が、鳴いていた。