飼い犬に手を噛まれまして


 知ってるような顔して山咲さんの話を聞いた私が悪いんだ。



「そのことが直接の理由ってわけじゃないと思うんだけどね。姫、退職するんだってさ」

 えっ?

「えっー!? た、退職?」

「うん。今日辞表提出したらしい。今年度で退職するんだよ。有給消化するために、今日が最後の出社。今、見送りしてきたとこ。茅野ちゃんも知らなかったんだなぁ。誰にも言ってないんだろうけど、急すぎて皆戸惑ってるよ」

「私のせいですか?」

「だから、違うよ。それだけじゃない」



 全然、知らなかった……

 いくらこんな状態だからって、同期に退職も知らせないで一人で去っていくなんて和香ひどいよ。 

 私、トイレで冷たくしちゃったよ。あれが会社で会う最後の会話になるなんて嫌だ。


「山咲さん、失礼しますっ!」

「茅野ちゃん? ごめんまた余計なこと言ったかな」

「いえ、教えてくれてありがとうございます」

 和香なら電車通勤だし、地下鉄の駅まで走ればまだ間に合うかな?

 ダイアナのピンヒールのパンプスを精一杯カツカツ慣らしてオフィス内を大滑走する。

 帰宅で賑わう道を必死に走って、和香らしき後ろ姿を見つけた。


「和香ーっ!」


 大きな花束を抱えてる。あれは間違いなく和香だ。


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