飼い犬に手を噛まれまして
────会議室から出る。先輩は先に行ってしまったけど、誰かに聞かれたりしてないよね?
服装を元に戻しても、先輩の感触で身体中が支配されてるような変な感覚。足音をたてないように歩いて、平常心を保つために用もなく庶務課に入った。
「茅野。何の用?」
「萌子先輩……」
萌子先輩は決して癒やしキャラじゃないのに、今はその存在に安心する。ここで萌子先輩にどやされながら過ごした毎日が実は平和な時間だったなんて……
「どうしたのよ。あ、あんたまさか秘書が辛いから庶務課に戻りたいとか考えてるんでしょう? 今更、私のありがたみが骨身に染みてるのよね。わかるわー」
新人庶務さん二人は「えー? ないない」と顔を見合わせた。
うわぁん! そのまさかです。萌子先輩。だけど、今ここで泣きながら萌子先輩に愚痴ったらワンコをシンガポールに連れて行ってあげられなくなる。
「ホッチキスの針ください」
「はあ? 自分で取りな。こっちは忙しいの」
「はい……」
棚からホッチキスの針を一つ摘まんだ。
「萌子先輩、今日で退職ですよね」
「うん、まあね」
「今まで本当にありがとうございました」
頭を下げると部屋から出る。庶務課ともこれでお別れだ。
副社長室に戻ると、残務処理を手早く済ませる。だけど、ワンコに回ってきた仕事なんてほとんどなくてあっという間に片付いた。