飼い犬に手を噛まれまして


 カバンの中の携帯が振動した。相手は萌子先輩だ。

 今日は萌子先輩が退職する日だったから……私はこっそりと萌子先輩のロッカーにプレゼントを置いてきたから、それで電話がかかってきたんだと思う。

 郡司先輩と一緒に選んだエプロンとティーカップのセット。専業主婦になる萌子先輩のために二人で悩みながら選んだ。


「紅巴さん、出なくていいんですか?」

「うん、いい」

 携帯の電源を落とした。きっと、萌子先輩は、あんた何やってんのよ、って言うだけだよ。帰ってきて事情を話せばわかってくれるはず。


「加賀谷さんに、バレたらあの人怒り狂いそうですね」

「もうバレてるよ。見つかる前に飛行機乗らないとね。でも、もうチケットとれてるし、大丈夫だと思うけどね。それより、社長のほうが心配」

「あの人は、きっと俺なんて存在しなかったかのように仕事してるよ」

「でも、それなら副社長にはしないと思うよ」


 社長だって、多分ワンコが可愛いから副社長にしたんだ。親子のわだかまりは、私にはわからないけどね。
 タクシーは滑り込むように空港のターミナルに入っていった。


「紅巴さん、本当に行くんですか? シンガポールですよ? 海外ですよ?」

「行くよ。二人ともパスポートあるし、大丈夫。私、七年も真面目に働いていたから貯金はあるの」

「でも、そのお金結婚資金とかにすればいいのに……」

「あのねぇ」


 誰のために必死になってると思ってるの?


「ありがとうございます。紅巴さん」


「出世払いでいいから……」

「はい」

「深陽さん取り戻して、先に進んで、自分が納得できる居場所探してね」


「はい、やれるだけ頑張ります」


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