飼い犬に手を噛まれまして
あれ? 今の声って?
「星椰! 待ちなさい、止まって!」
長い髪を振り乱しながら走るパンツスーツの女の人。私たちがシンガポールで一番会いたかった人が駆けてくる。
「え? み、深陽!?」
ワンコは、カートを捨てて一目散に深陽さんに駆け出した。
「やっ、やったぁー!」
嘘みたい。すごい! やっと会えた!
深陽さんは大きな瞳に涙をいっぱいためて、ワンコに抱きつくのかなぁ、と思ったけど、まず強烈な平手打ちをワンコにお見舞いした。
痛そう……っ
ワンコは一メートルくらい横に吹き飛んで頬を押さえながらよろめいた。
「なんで気持ち伝えるのに、女の人を連れてくるのよ! 星梛のばかやろう!」
「み、深陽……ごめん」
「誤解して……意地張って、またすれ違うところだった…………」
ワンコは、マゾなのかな? 殴られたのに満面の笑みで、深陽さんを抱きしめた。
多分、尾があるならはちきれんばかりに横に振られていると思う。
「深陽、好きだ……会いたかった……」
ほら、やっぱりワンコが言葉にする本物の好きは深陽さんのためだけに用意される独特の響きがある。
それがちょっと寂しいのは、長く一緒にいたせいだ。
「捨てたりして、ごめんね……星椰……」
深陽さんの小さな声が私にも届く。