真実の永眠
22話 贈物
――バレンタイン前日。
「♪」
鼻歌を唄い、誰がどう見ても上機嫌である事が伺えるそんな姿で、私はキッチンに立っていた。
私は今、お菓子作りをしている。今月十四日の、バレンタインデーの為に。
分量を間違えないようにしっかりと量りで計量し、卵やら小麦粉やらをボールに入れて行く。
お菓子作りは計量が命だ。故に少しでも分量を間違ってしまうとそれはもう完全に失敗に終わってしまう。目分量で作るなんて以ての外だ。
私は決して失敗をしないように、集中してお菓子作りに努めていた。
――十四日、会えないかな?
少しの時間でいいから、と。
そう尋ねたのは、昨日。
有りっ丈の勇気を振り絞って、バクバクとなる心臓を煩わしく思いながら、私は優人にメールでそう尋ねた。
今まで、ただただ一方的にこちらが見ていただけで、一度も会った事はないし会おうと誘ったのもこれが初めてだった。
だから緊張したし、もしかしたら会うのを拒否してくるかもしれないと不安になったが、バレンタインデーにはどうしても優人に会いたかった。
直接会ってこの手で渡したい。気持ちを、伝えたい。
だから思い切って聞いてみたのだ。
――その日学校は早く終わるんだけど部活があって。その後でもいいなら大丈夫だよ。
夢かと思った。その言葉を見た瞬間。
それが届いた瞬間は、返事が怖くてなかなかメールを開けなかった。
正直会ってくれないと思ってた。会えるなんて思っていなかったから、お菓子作りに必要な材料を揃える事すらまだしていなかった。
だが、そのメールを見てからの行動はとにかく早かった。
<私はいつでも大丈夫だよ>と即座に返事をし、すぐにお菓子の本を本棚から取り出した。
何を渡そうか散々迷ったけれど、やはりケーキ屋に勤める身としては、ケーキを渡したい。
バレンタインだから、チョコケーキなんていいかも知れない。
お菓子作りが元々得意だった事もあるし、仕事場で多くの事を学んでいるのだから、恐らく何も知らない人よりは上手く作れるだろう。
それとは別に、別の気持ちに。
少し、ほんの少しでも……優人に凄いなって思って貰いたくて。
だから手軽に誰でも簡単に作れるチョコじゃなくて、それを選んだ。そんな気持ちから、バレンタインに贈るものをチョコケーキに決めた。
決めたら早い。すぐに材料を買いに行った。
バレンタインデーは明日。
だから今、その為にケーキを作っている。早くに出来上がってしまっても、冷凍をしておけば問題ない。当日の朝にでも冷凍庫から出しておけば、渡す頃には丁度いい具合に解凍されているだろう。
私はケーキの型を、足元のキッチン棚から取り出し、それに紙を敷く作業に掛かった。
――分かった。終わったらどこに行けばいい?
――じゃあ、T駅の、分かり易い場所にいて。
優人が通学で使っている駅だから、必ずそこに来る。
自分がそこまで行くには遠いかなと思わなくもなかったが、優人に会う為なら今ならどこへでも行ける気がする。多少無理をしてでも会いたかった。
――了解! じゃあ着いたらメールする。
「ふふ」
優人とのメールを思い出すと、どうしても顔が緩んでしまう。
どうしよう、嬉しい。
明日優人に会えるのだと思うと、会うのを承諾してくれた事を考えると嬉しくて仕方がない。初めて二人で会うのがバレンタインデーなんて素敵だ。
その感情ばかりが溢れて来る。
最近は特に幸せな事が続き過ぎて、それが逆に不安になる事もある。幸せ過ぎて不安になる事は、やっぱり幸せな事なんだろうか。
そこまで思考を巡らせると、私はたった今用意した型を、適当に空いたスペースに置いた。そして泡立て器を右手に持ち、ボールの中のものを泡立て始めた。ヴイィィィィンと、喧しい音が響き渡る。
テレビが聞こえ辛くなるだろう。そう思い、妹を見やると、案の定テレビの音量を上げていた。
手元に視線を戻し、左手に持つボールを、抱え直した。
上手く作りたい。優人に渡すものだから。
プロじゃないから完璧に仕上げる事なんて不可能だけれど、せめて失敗だけはしないように。浮かれていないで集中して、準備は万端に、抜かりのないように。
「――順調?」
作業の様子をちょくちょく見に来ては声を掛けて来るのは、母や妹だ。
焼き上がったスポンジをオーブンから取り出して、それを冷ましている間に私は生クリームを泡立て、それにチョコを混ぜている所だった。
「今の所は、ね」
「やっぱケーキ屋に勤めているだけの事はあるね。手際いいしスポンジも完璧じゃん」
焼き上がったスポンジを見ながら夕海がそう言うと、ほんとほんと、と賛同するかのように口を開く母。
私はそれに笑って返した。
お菓子作りは基本的に得意だった。けれど、難しくなるのはここからだから、油断をしては行けない。
「あ。スポンジ触らないでね」
「……はいはい」
にっこりと笑って言った私に、夕海は苦笑しながら答える。
完璧主義な性格。
少しでも崩れたり自分が納得行かなくなると困るので、触ろうとする気配はなかったが大事なものなので念のためそう言っておいた。
「あ、出来たら残ったもの味見してあげようか?」
「……別にいいよ。美味しいから」
単に自分が食べたいだけの夕海のこの発言には、言った本人も、答えた私も笑った。
母も妹も暫くは作業工程を見ていたが、何もしないで立っている事に疲れたのか、部屋に戻りまたテレビを観ながら寛ぎ始めた。
――美味しいから。
言った言葉に嘘はない。味はきっと美味しく仕上がる、自信はある。まだドロドロの生地の段階で味見はしっかりとしてあるから、それに間違いはない。
問題は次。スポンジにクリームを塗って行く作業。これはまだ仕事でもした事がない工程だから、店長や正社員のしている事を見様見真似でするしかない。
それは自分が最も得意とする事なんだけれども、やはりそう簡単には上手く行かない事は知っている。
そして完璧主義な性格。この後、とても面倒な事が起こる。
「何これ!! ……もうやだ……」
それまでは声を掛けられても上機嫌に答えていたが、いきなり不機嫌を露に叫び出したものだから、何事かと母も妹二人も駆け寄って来た。
私はキッチンの前で、ケーキも作らず蹲っていた。
「……どうしたの?」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、母が恐る恐る尋ねてくる。妹達には声を掛ける勇気がなかったんだろう。
「……」
私は何も答えなかった。
「……」
「……」
暫しの沈黙の後、漸く私は、徐に口を開いた。
「……クリーム塗るのが下手過ぎて……スポンジも少し斜めに傾いちゃったし……あんなの優人に渡せない……」
蹲って組んだ腕に顔を埋めながらポツポツと放った言葉に。
「え。綺麗じゃん」
「うん。上手に出来てると思うけど」
「見るからにケーキって分かるし、塗り方も綺麗だよ」
三人は口々にそう言った。
慰めようとするお世辞なんかではなく、心からの言葉だと分かっているが、とにかく自分が気に入らないと思うものは気に入らないのだ。少しでも形が歪になると、それだけで気に入らない。自分には出来ない事も気に入らない。
でもそれで腹を立てている訳ではないのだ。気に入らない、けれども、そんなものしか贈れないと思うと、酷く悲しくなるのだ。
「……もうそんなのケーキじゃないよ……」
ボソッと言うと、
「ケーキじゃん!!」
だったら自分が貰ってあげようか!? なんて冗談を夕海は言う。
「……駄目。」
ゆっくりと顔を上げ、そう言った。何とも矛盾した行動と言動。
「でも形より気持ちが大切なんだから、一生懸命な気持ちは充分に篭もってるよ。ていうか、形も綺麗だし」
「そうだよ。お姉ちゃんの気持ちはめちゃくちゃそのケーキに込められてるんだから」
母と妹の言葉に苛立つ。
「全然形綺麗じゃないじゃない……!」
「綺麗じゃん!! どこをどう見て綺麗じゃないって言うの!?」
「よく見て! 上から見たら分かんないかも知れないけど、横から見たら斜めになってるのが分かるから!!」
感情的に放った私の言葉に、三人は何とも言えない表情で視線をケーキに向けた。
「……ほんの少しじゃん。よく見ないと分かんない」
「やっぱり傾いてるんじゃない……!」
う、うぜぇ……。
訪れた沈黙が、それを語る。
これ以上何かを言う方が逆効果だと踏んだのだろう三人は、ただ溜息をつくだけで、もう何も言わず、部屋に戻って行った。
必死になる。好きな人へ贈るものだから。
義理チョコではなく、真心を込めて作る、たった一人の大切な人に贈るものだから。
それだけ大事なものだと自分でも自覚はあったんだろう。感情に任せて物を放り投げなかったのが証拠だ。貰ってあげようかと言われて駄目だと答えた事も。
半泣き状態で捲くし立てていた私も、もうそれ以上は何も言わなかった。
キッチンに一人残された私は、暫くはそのままじっとしていたが、静かにこの手を動かした。
涙が零れた。
けれど誰にも涙は見せたくないから、必死に声を殺す。
それだけ、必死なんだ。たった一人の大切な人に贈るものだから。
涙がケーキに零れてしまわないように、肘下まで捲っていた袖で拭った。
ケーキはもう、完成間近だ。
傾いたスポンジの低い部分に、クリームを少し厚く塗る事で、問題点は見事に解消された。
クリームを塗り終えて、後は表面部分の飾りだけだ。
自分は優人の彼女ではないから、ケーキの形をハート型にする事は流石に躊躇われたが、しかしこの気持ちを込めたくて、表面の飾りに小さくハート型を作った。
サイズは四号サイズよりも小さな丸いケーキ。大きく作り過ぎて持ち帰るのに困らないように、そして食べ易いように。
明日優人へ贈るチョコケーキが、完成した。
「♪」
鼻歌を唄い、誰がどう見ても上機嫌である事が伺えるそんな姿で、私はキッチンに立っていた。
私は今、お菓子作りをしている。今月十四日の、バレンタインデーの為に。
分量を間違えないようにしっかりと量りで計量し、卵やら小麦粉やらをボールに入れて行く。
お菓子作りは計量が命だ。故に少しでも分量を間違ってしまうとそれはもう完全に失敗に終わってしまう。目分量で作るなんて以ての外だ。
私は決して失敗をしないように、集中してお菓子作りに努めていた。
――十四日、会えないかな?
少しの時間でいいから、と。
そう尋ねたのは、昨日。
有りっ丈の勇気を振り絞って、バクバクとなる心臓を煩わしく思いながら、私は優人にメールでそう尋ねた。
今まで、ただただ一方的にこちらが見ていただけで、一度も会った事はないし会おうと誘ったのもこれが初めてだった。
だから緊張したし、もしかしたら会うのを拒否してくるかもしれないと不安になったが、バレンタインデーにはどうしても優人に会いたかった。
直接会ってこの手で渡したい。気持ちを、伝えたい。
だから思い切って聞いてみたのだ。
――その日学校は早く終わるんだけど部活があって。その後でもいいなら大丈夫だよ。
夢かと思った。その言葉を見た瞬間。
それが届いた瞬間は、返事が怖くてなかなかメールを開けなかった。
正直会ってくれないと思ってた。会えるなんて思っていなかったから、お菓子作りに必要な材料を揃える事すらまだしていなかった。
だが、そのメールを見てからの行動はとにかく早かった。
<私はいつでも大丈夫だよ>と即座に返事をし、すぐにお菓子の本を本棚から取り出した。
何を渡そうか散々迷ったけれど、やはりケーキ屋に勤める身としては、ケーキを渡したい。
バレンタインだから、チョコケーキなんていいかも知れない。
お菓子作りが元々得意だった事もあるし、仕事場で多くの事を学んでいるのだから、恐らく何も知らない人よりは上手く作れるだろう。
それとは別に、別の気持ちに。
少し、ほんの少しでも……優人に凄いなって思って貰いたくて。
だから手軽に誰でも簡単に作れるチョコじゃなくて、それを選んだ。そんな気持ちから、バレンタインに贈るものをチョコケーキに決めた。
決めたら早い。すぐに材料を買いに行った。
バレンタインデーは明日。
だから今、その為にケーキを作っている。早くに出来上がってしまっても、冷凍をしておけば問題ない。当日の朝にでも冷凍庫から出しておけば、渡す頃には丁度いい具合に解凍されているだろう。
私はケーキの型を、足元のキッチン棚から取り出し、それに紙を敷く作業に掛かった。
――分かった。終わったらどこに行けばいい?
――じゃあ、T駅の、分かり易い場所にいて。
優人が通学で使っている駅だから、必ずそこに来る。
自分がそこまで行くには遠いかなと思わなくもなかったが、優人に会う為なら今ならどこへでも行ける気がする。多少無理をしてでも会いたかった。
――了解! じゃあ着いたらメールする。
「ふふ」
優人とのメールを思い出すと、どうしても顔が緩んでしまう。
どうしよう、嬉しい。
明日優人に会えるのだと思うと、会うのを承諾してくれた事を考えると嬉しくて仕方がない。初めて二人で会うのがバレンタインデーなんて素敵だ。
その感情ばかりが溢れて来る。
最近は特に幸せな事が続き過ぎて、それが逆に不安になる事もある。幸せ過ぎて不安になる事は、やっぱり幸せな事なんだろうか。
そこまで思考を巡らせると、私はたった今用意した型を、適当に空いたスペースに置いた。そして泡立て器を右手に持ち、ボールの中のものを泡立て始めた。ヴイィィィィンと、喧しい音が響き渡る。
テレビが聞こえ辛くなるだろう。そう思い、妹を見やると、案の定テレビの音量を上げていた。
手元に視線を戻し、左手に持つボールを、抱え直した。
上手く作りたい。優人に渡すものだから。
プロじゃないから完璧に仕上げる事なんて不可能だけれど、せめて失敗だけはしないように。浮かれていないで集中して、準備は万端に、抜かりのないように。
「――順調?」
作業の様子をちょくちょく見に来ては声を掛けて来るのは、母や妹だ。
焼き上がったスポンジをオーブンから取り出して、それを冷ましている間に私は生クリームを泡立て、それにチョコを混ぜている所だった。
「今の所は、ね」
「やっぱケーキ屋に勤めているだけの事はあるね。手際いいしスポンジも完璧じゃん」
焼き上がったスポンジを見ながら夕海がそう言うと、ほんとほんと、と賛同するかのように口を開く母。
私はそれに笑って返した。
お菓子作りは基本的に得意だった。けれど、難しくなるのはここからだから、油断をしては行けない。
「あ。スポンジ触らないでね」
「……はいはい」
にっこりと笑って言った私に、夕海は苦笑しながら答える。
完璧主義な性格。
少しでも崩れたり自分が納得行かなくなると困るので、触ろうとする気配はなかったが大事なものなので念のためそう言っておいた。
「あ、出来たら残ったもの味見してあげようか?」
「……別にいいよ。美味しいから」
単に自分が食べたいだけの夕海のこの発言には、言った本人も、答えた私も笑った。
母も妹も暫くは作業工程を見ていたが、何もしないで立っている事に疲れたのか、部屋に戻りまたテレビを観ながら寛ぎ始めた。
――美味しいから。
言った言葉に嘘はない。味はきっと美味しく仕上がる、自信はある。まだドロドロの生地の段階で味見はしっかりとしてあるから、それに間違いはない。
問題は次。スポンジにクリームを塗って行く作業。これはまだ仕事でもした事がない工程だから、店長や正社員のしている事を見様見真似でするしかない。
それは自分が最も得意とする事なんだけれども、やはりそう簡単には上手く行かない事は知っている。
そして完璧主義な性格。この後、とても面倒な事が起こる。
「何これ!! ……もうやだ……」
それまでは声を掛けられても上機嫌に答えていたが、いきなり不機嫌を露に叫び出したものだから、何事かと母も妹二人も駆け寄って来た。
私はキッチンの前で、ケーキも作らず蹲っていた。
「……どうしたの?」
ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、母が恐る恐る尋ねてくる。妹達には声を掛ける勇気がなかったんだろう。
「……」
私は何も答えなかった。
「……」
「……」
暫しの沈黙の後、漸く私は、徐に口を開いた。
「……クリーム塗るのが下手過ぎて……スポンジも少し斜めに傾いちゃったし……あんなの優人に渡せない……」
蹲って組んだ腕に顔を埋めながらポツポツと放った言葉に。
「え。綺麗じゃん」
「うん。上手に出来てると思うけど」
「見るからにケーキって分かるし、塗り方も綺麗だよ」
三人は口々にそう言った。
慰めようとするお世辞なんかではなく、心からの言葉だと分かっているが、とにかく自分が気に入らないと思うものは気に入らないのだ。少しでも形が歪になると、それだけで気に入らない。自分には出来ない事も気に入らない。
でもそれで腹を立てている訳ではないのだ。気に入らない、けれども、そんなものしか贈れないと思うと、酷く悲しくなるのだ。
「……もうそんなのケーキじゃないよ……」
ボソッと言うと、
「ケーキじゃん!!」
だったら自分が貰ってあげようか!? なんて冗談を夕海は言う。
「……駄目。」
ゆっくりと顔を上げ、そう言った。何とも矛盾した行動と言動。
「でも形より気持ちが大切なんだから、一生懸命な気持ちは充分に篭もってるよ。ていうか、形も綺麗だし」
「そうだよ。お姉ちゃんの気持ちはめちゃくちゃそのケーキに込められてるんだから」
母と妹の言葉に苛立つ。
「全然形綺麗じゃないじゃない……!」
「綺麗じゃん!! どこをどう見て綺麗じゃないって言うの!?」
「よく見て! 上から見たら分かんないかも知れないけど、横から見たら斜めになってるのが分かるから!!」
感情的に放った私の言葉に、三人は何とも言えない表情で視線をケーキに向けた。
「……ほんの少しじゃん。よく見ないと分かんない」
「やっぱり傾いてるんじゃない……!」
う、うぜぇ……。
訪れた沈黙が、それを語る。
これ以上何かを言う方が逆効果だと踏んだのだろう三人は、ただ溜息をつくだけで、もう何も言わず、部屋に戻って行った。
必死になる。好きな人へ贈るものだから。
義理チョコではなく、真心を込めて作る、たった一人の大切な人に贈るものだから。
それだけ大事なものだと自分でも自覚はあったんだろう。感情に任せて物を放り投げなかったのが証拠だ。貰ってあげようかと言われて駄目だと答えた事も。
半泣き状態で捲くし立てていた私も、もうそれ以上は何も言わなかった。
キッチンに一人残された私は、暫くはそのままじっとしていたが、静かにこの手を動かした。
涙が零れた。
けれど誰にも涙は見せたくないから、必死に声を殺す。
それだけ、必死なんだ。たった一人の大切な人に贈るものだから。
涙がケーキに零れてしまわないように、肘下まで捲っていた袖で拭った。
ケーキはもう、完成間近だ。
傾いたスポンジの低い部分に、クリームを少し厚く塗る事で、問題点は見事に解消された。
クリームを塗り終えて、後は表面部分の飾りだけだ。
自分は優人の彼女ではないから、ケーキの形をハート型にする事は流石に躊躇われたが、しかしこの気持ちを込めたくて、表面の飾りに小さくハート型を作った。
サイズは四号サイズよりも小さな丸いケーキ。大きく作り過ぎて持ち帰るのに困らないように、そして食べ易いように。
明日優人へ贈るチョコケーキが、完成した。