真実の永眠
*
――優人からだ。
中本さんは私の瞳を捉え、小さく、それでもはっきりと強い口調でそう言った。
「――出るよ?」
彼がそう告げると、私達はこくんと頷いた。
何だろうか、この緊迫した空気は。
「――もしもし? ……おう」
優人に繋がった瞬間に、ドキッとした。
優人が何を話しているのか聞き取ろうとするけれど、何を言っているのか分からない。
麻衣ちゃんもそのやり取りを、じっと見つめている。
「……今? 別に何もしてねーよ。……おう」
「何話してるか聞こえないね……」
「うん……」
優人に自分達がいる事を知られないよう、麻衣ちゃんは小声で話し掛けて来た。
「お前今何してんの? ……学校? ……ああ、あれか……うん……え!? マジで!?」
語尾が突然大きくなったので、私と麻衣ちゃんは思わず顔を見合わせた。
何話してるんだろう……。
内容が気になって仕方がない私は、眉間に皺を寄せて、不安を露わにした顔付きでただただじっと中本さんを見ていた。
彼もちらちらとこちらを見てはニヤニヤしている。
「いや、大丈夫大丈夫!」
中本さんも興奮しているのか、どんどんテンションが上がって行く。
じっと見ていると、彼はこちらに向かって、何やら口パクで何かをこちらに伝えて来た。
「 」
私達は眉を顰めて険しい表情で読み取ろうとするが、早口でしかも声を発していない為、何を言っているのか理解出来なかった。
中本さんはもう一度、今度は一文字一文字言葉を区切って、声を出さずに口を動かした。
ゆ う と が く る。
「――……っ!!」
私達はやっと彼の伝えたい事を理解した。
酷く驚いた私は、目を見開いて両手で口を覆った。
麻衣ちゃんは「良かったじゃん!」と言いそうな明るい表情でこちらを見る。
私達が理解したのを横目で確認すると、中本さんはニッと口の端を吊り上げた。
「おう、じゃあ三十分後? 了解! ……おー、じゃあ」
――……ピッ。
その音と共に、二人の会話は終わった。
「優人、今から俺ん家来るって!」
その顔に笑顔を張り付かせながら、中本さんは言った。
「雪音ちゃん、良かったじゃん!!」
「う、うん……」
予想外の展開に、麻衣ちゃんも歓喜の表情を浮かべる。私はそれに、曖昧に笑った。
二人が自分の事のように喜ぶ中、私だけ、素直に喜べずにいた。不安な表情を浮かべて、目を泳がせる。
「……雪音ちゃん?」
私の様子に気付いた二人は、急にどうしたんだというように顔を見合わせた。
麻衣ちゃんの問い掛けに、私はゆっくりと口を開く。
「……でも、優人は……私が来てる事、知らないんだよ、ね……?」
「うん。内緒にしてあいつをビックリさせてやろうと思って」
「……」
その厚意に、何だか申し訳なくて表情を曇らせた。
優人は今日、学校に登校していたのだという。昼過ぎで学校も終わり、今日はバイトにも自動車学校にも行かなくていいのだそうだ。
そして、これからの時間を持て余してしまうという理由から、友達である中本さんの家へと、今から遊びに行ってもいいかという話が、先刻の二人の会話だったのだ。
これから優人に会えるというのに、素直に喜べない理由とは、単純に、バレンタインデーに会えないかと誘って、断られてしまったから。私にはどうしても、「本当は会いたくなかったのではないか」という負の感情が拭えずにいたのだ。もしそうだとすれば、今ここで秘密にして、優人が自分の存在を知らずここへ来てしまったらどうなる?
優人の表情を見るのが怖くて、会うのが怖くて、自分の存在を知らせずにここへ呼ぶ事だけは何とか避けたかった。
知らずにここへ来たその刹那の表情。それが、それだけが、気掛かりだった。
私はその旨を二人に伝えた。
麻衣ちゃんは「そっか……」と納得するように頷いたが、中本さんは少々渋る様子を見せた。
「……でもなぁ……」
「まぁいいじゃん。何となく会いづらい気持ちも分かるし」
胡坐をかきながら溜息交じりに呟く中本さんに、麻衣ちゃんが返す。
「あいつが雪音ちゃんを嫌ってる事は、絶対にないと思うよ。俺は内緒にしてビックリさせたいんだけどなぁ……」
うーん、と唸る彼を一瞥し、私は困ってしまい俯いた。
「雪音ちゃんが来てる事、話しちゃえばいいじゃん。伝えた後の反応も逆に気になるし」
「……まぁ、それもそうだな」
やや間があってから、彼は納得したように呟いた。
私の様子を見て、納得せざるを得ない状況だと判断したからかも知れないが。
「俺から伝える?」
「あ、私が自分で伝える」
これ以上面倒は掛けられないと思い、携帯電話を取り出そうとした中本さんの行動を制止し、自分の携帯電話を取り出した。
そして一旦深呼吸をし、ボタンを押し始める。
<さっき中本さんから話を聞きました。今私、麻衣ちゃんと中本さんの家に来てるんだけど、私達このままいても大丈夫?>
メール本文にそう書いて、私は躊躇う事なくそれを送信した。
「……」
返事が、怖い。
最悪だ……、そう思われでもしたらどうしようか。
ごめん、やっぱり行くのやめる、そんな事を言い出したらどうしようか。……恐らく、立ち直るのに時間を要する事だろう。でも、そんな反応も、知らずにここへ来てしまって絶望的な表情をされるよりは、ずっといい。
そう思い直した。
「……送った?」
「……うん」
心配そうに尋ねて来る麻衣ちゃんに、曖昧に笑って返事をした。
その時。
携帯電話の着信音が、突然鳴り出した。
表示されている名は、――“優人”。
「……」
「……」
「……何で俺の携帯に掛かって来るわけ?」
暫しの沈黙を破ったのは、中本さんだった。
彼は呆れた様子で表示されている名前を見た後、気だるそうに携帯電話を開いて、そして電話に出た。
「……もしもし?」
私は、中本さんに向けていた視線をそこから外し、俯いたまま黙って二人のやり取りを聞いていた。とは言え、優人の声は聞こえなかったが。
二人には聞こえないくらいに小さな小さな溜息をついた。
どうしてこちらには返事が来ないのに、あちらには連絡があるのだろうか。優人からのあの電話は、恐らく自分が出したメールについてだろう。
「……え? え? ……全然聞こえねー……もう少しでかい声で話して!」
中本さんの一方的な言葉だけでは、どんな内容なのか見当をつける事も出来なかった。
「……ああ、まぁ、うん。……で、どうする? ……ああ、分かった。……じゃあ」
電話を終えた中本さんは、面倒な奴らだな、と言いたげな吐息を吐いた。
私は俯いていた顔を上げると、彼から紡ぎ出される言葉を静かに待った。
「優人、来るってさ。雪音ちゃんがいてもいいって」
そう言った中本さんに、にかっと笑い掛けられ、心底安心して硬い表情を和らげた。
「良かったじゃん!」
「うん、良かった……」
隣に座る麻衣ちゃんにも笑い掛けられて、私は安堵の表情でそう呟いた。
そのやり取りの直後、優人から返信があった。
返事は短く「いいよ」と書かれており、語尾に一つ絵文字が付けられていた。
優人に対して色々思う事はあったが、知った上で来てくれるのだから、素直に喜ぶ事にした。
先刻の電話でのやり取りを聞くと、最初優人はもごもごと言葉を紡いでいるものだから、何を言っているのか中本さんでも聞き取れなかったらしい。
私がここへ本当に来ているのか、どうしようか、などと言いたかったのだろうが、僅かな動揺の所為で、言葉を上手く発する事が困難だったのだろうと、中本さんは優人のそんな様子からそう判断を下し、教えてくれた。
優人がこの部屋に到着する予定の時刻は、今から約二十分後らしい。
私達は、妙な緊張感に包まれていた。
「あ、そういえば。大石(おおいし)も一緒に来るってさ」
ベッドに仰向けに寝転がり、頭の後ろで腕を組んだ姿勢のまま、中本さんが口を開いた。
「大石?」
麻衣ちゃんが誰だっけと記憶を探るけれど、やはりそんな名の知り合いは思い付かなかったらしい。
「誰それ」
「前に二人でここに来た時、雪音ちゃんに優人の画像あげた奴いたろ? あいつ」
「ああ」
私達の声が重なった。続けて麻衣ちゃんが、「大石っていうんだ、あの人」と、さして興味もなさそうに呟いた。
それに対してどちらも特に返事をする事はなく、暫く沈黙が続いた。
ただ、その沈黙の中、私の心臓だけはバクバクと喧しく鳴っていた。
優人がここに到着するのは、今から二十分後。
長いようで短い、短いようで長い、不思議な感覚の二十分だった。
時計をチラチラと見やり、もうそろそろ到着するのではないか、丁度そう三人で話していた頃、突然中本さんの携帯電話が鳴り始めた。
「……あ、今度は大石からだ」
「電話?」
「ああ。――もしもし?」
麻衣ちゃんの問いに短く返事をした後、中本さんはすぐに大石さんからの電話に出た。
「おー、分かった」
言いながら彼は、ベッドから立ち上がって窓下を覗き込んだ。
「鍵開いてるからそのまま俺の部屋まで勝手に入って来て」
「!」
中本さんのその言葉に、一際大きく心臓が跳ねるのを感じた。優人がすぐそこまで来ているのだと、今の言葉で分かったからだ。
私はスカートをギュッと握り締めた。
少しだけ大石さんと会話をした後、中本さんは電話を切った。
直後、階下の玄関扉が、開かれる音がした。
「――……」
表情を強張らせ、硬直してしまった。
そんな私に気付いた中本さんが、
「はは。雪音ちゃん、そんな緊張しなくてもいいよ」
そう言ってくれたけれど、結局曖昧な微笑で返すだけだった。
――……トン、トン、トン。
ゆっくりと、階段を上って来る、音がする。
「……」
「……」
「……」
麻衣ちゃん達は、部屋の扉を凝視していて、私だけがそちらも見られず、俯くだけだった。
トン、トン、トン、トン――……。
階段を上って来る音が、ここで途切れた。
「――……」
ごくりと唾を飲み込む音が、響く。
扉の向こうに人の気配がして――次の瞬間に、その扉は開かれた。
ゆっくりと、扉へと視線を向ける。
「おう」
先に入って来たのは、大石さんだった。
続いて、優人が、その顔に僅かな微笑を張り付かせ、入って来た。
ゆ、優人――……。
優人とほんの一瞬目が合ったけれど、私は緊張のあまりすぐに逸らしてしまった。
「おー、二人共おかえりー」
入って来た二人に中本さんが爽やかな笑顔でそう言うと、麻衣ちゃんも続けて「おかえりー」と笑って言った。
それに対して二人は「ただいま」と笑って返した。
「ほら、雪音ちゃんも「おかえり」って言わなきゃ!」
麻衣ちゃんにそう言われて、私は動揺した。
そして一瞬躊躇った後、
「……おかえり」
自分に背中を向けていた優人に向かって、小さく言った。
その小さな声を拾ってくれた優人は、こちらを振り返り、笑顔で頷いてくれた。