真実の永眠
 仕事を終えて帰宅すると、部屋には昨晩実家へと帰った筈の夕海がいた。大きなスポーツバッグに、着替えなど詰め込んでいるようだった。本格的に実家へと帰る支度でもしているのだろうか。
 私は何も言わなかった。ただいまの一言さえも。夕海も何も言わなかった。
 私は夕海の横をふらふらとした足取りで通り過ぎ、いつも真っ先に着替えるのに、その所作すらしないまま、ベッドへと倒れ込んだ。
 今日、どんな気持ちで仕事へと向かったのか、どんな作業をしたのか、記憶がなかった。車を運転して仕事へと向かった筈なのに、運転した記憶もなかった。どんな気持ちで帰宅したのかさえも。
 こんな半分死んだ状態でそれでも何とか記憶していたのは、今朝、空が綺麗だった事。澄み渡った青が、そこには広がっていて、日差しが気持ちよかった。その綺麗さが眩しくて、心が痛いと感じたんだ。
 それと、もう一つ。
 朝礼時、仕事の流れについて店長が私に言った事。
「遠山さんには、今日からこの作業もやってもらいます」
 フィナンシェを一人でも作れるようになった為、その作業を私一人に任せてくれるという訳だ。だけど私は、
“明日からはもう、作らないだろう”頭の隅でぼんやりと、そんな風に思ったんだ。
 今日という日の中で、今の所これしか記憶がなかった。
 疲れているんだ、ここ最近色々あったから。昨日は一睡もしていないし、ただ、疲れているだけ。それだけ。
 最近、色々、あった。最近……? ううん、ずっとだ。ずっと、苦しかった。
 疲れたんだ……――人生に。
「……死にたい……」
 ぽつりと、呟いた。
 夕海の動きが止まった。背を向けていたけれど、気配で悟る。
「……え……?」
 夕海はたった一言、呟いた。
 聞こえなくて聴き返している訳ではないだろう。だけど私はもう一度呟いた。
「死にたい」
 口にした瞬間、涙が溢れた。ボロボロと流れていく。
 一度目の言葉は、まるで心が呟いたのではないかと思った。二度目の言葉で、自分が何を言ったのか自覚したから。一度目呟いた時には流れなかった涙が、今は溢れている。
 報われない想い、報われない現実。これまで惜しみなく努力を続けてきた、頑張ってきた。頑張って、きたのに。
 現実は本当に残酷で。死んでしまえば楽になれるのではないだろうか。愛しかった筈のものが、この時一瞬、全て憎らしいと思ったんだ。
「……うっ、……ううっ……」
 何も言わずただ泣き続ける私を見て、夕海は戸惑っているようだった。
 これまでとは明らかに何かが違う。
 私のたった一言で、私がどれだけ追い詰められていたのかを、この時漸く気付いたんだろう。
 夕海はすぐに母に連絡していた。






 夕海からの連絡を受け、母は桃花を連れてすぐに私の家へとやってきた。その様子は酷く慌てていた。
 母がやってきても、私は泣き続けていた。
「――雪音っ……!」
 私の傍に、すぐに母は駆け寄ってくれた。私は顔を上げ母の顔を見ると、再び、涙ながらに言った。
「……お母、さん……わたっ、わたし、もう……死ん、じゃいたい……」
 母の顔が悲しみで歪んだ。そしてその瞳からは私と同じように涙が伝っていた。
 泣き崩れる私の背中を、さすってくれている。夕海は今にも泣き出しそうな顔を俯けて、私の傍でじっとしていて、桃花は、悲しそうな表情で、立ち竦んでいた。
 死んでしまいたい。こんなに辛く苦しい状況が続いていくのなら。それを乗り越えどこまで頑張り抜いても、何も報われないのならば。死んだ方が、楽なのだ。
 全てが憎い。このまま憎み続けて、死んでやろうか。
 こんな風になるまで、見捨てた奴等がいるのだ。近くにいたにも関わらず、何も気付かずにいた家族。曖昧な態度で、思わせぶりだった優人。神様も全部全部――……。憎んで死んでやればいい。
 そう、思ったのに。
「ごめん、ごめんね……」
 母が泣きながら呟いた。
「雪音がこんなに苦しんでる事、気付いてあげられなくて……」
 私は泣き崩れたまま、けれど確かに、母の声には耳を傾けていた。
「辛かったよね、苦しかったよね……。雪音は何でも一人で頑張るから……。お母さん今まで、自分の事ばかりで……辛いって知ってた筈なのに、雪音がこうなって初めて、ここまで苦しんでたんだって知った……ごめんね」
 母の言葉に、これまでとは確かに違う感情の涙が溢れた。
「……うっ、うっ……ううっ……」
 死にたいと泣いた私に、泣きながら自分の過ちを謝罪する母を見て、余計に溢れる涙。
 憎しみと苦しみで「もう死のう」と思った時、憎めば憎む程、優人の優しい笑顔が浮かんだ。瞼の裏に、輝く笑顔が映る。
 優人……。
 憎み切れずにそれでもまだ、優人が好きだと思う自分に、怒りを覚えながらも本当は、安堵した。醜い姿へと化したこんな自分に。今も、僅かでも、綺麗な気持ちが残っていた事が嬉しくて。
 そうだ。
 大好きなんだ。ただ優人が、大好きだったんだ。
「ううっ……」
 今この瞬間、一生分の涙を流した気がした。悲しい味だった。






 どれだけの時間、自分が泣いていたのか分からない。
 落ち着きを取り戻して泣き止んだ頃に、母と一緒に桃花も、私の背中をさすってくれていたのだと気付いた。
 泣き腫らした顔を横に向けて辺りを伺うと、夕海が部屋にいない事にも気付く。
「夕海は……?」
 私の問いに、困惑の表情で母が答えた。
「さっき出て行ったよ。突然立ち上がって玄関の方へ向かうから「どこに行くの」って訊いたら……「少し一人になりたいから外に行く」って。」
「そう……」
 夕海が何を思っていたのか、思っているのか、どうして一人になりたかったのか、それらは分からないけれど、夕海だってきっと、辛かったのだろう。こんな場面を目の当たりにして、何も感じない人など殆ど居はしないだろうから。
 きっと、この家での生活態度を反省しただろうし、もしかすると自分を追い詰めてしまったかも知れない。そして夕海は、きっと優人も許せなかっただろう。
 そう思い。
 私はバッと顔を上げて母の顔を見た。突然の事に驚きを露にする母。
「ど、どうしたの?」
 私は夕海の行き先に見当がついた。
「夕海、もしかしたら……優人の所に行ったのかも知れない……」
「え!?」
 母は驚愕している。
「え、え? 夕海は優人君の家を知ってるの?」
「ううん……住んでる場所をざっくりと教えた事はあったけど、細かい場所まで教えてない」
「優人君の家は、歩いていける距離なの?」
「うん。……急がないと、夕海は優人の家の近くまで行ってしまってるかも知れない……」
 夕海が優人の家を見付けるのは困難だろう。どのアパートかすら分からない筈だ。しかし、今の夕海なら何でもしてしまう気がして怖かった。
「お母さん、夕海を追い掛けてみるわ。二人はここで待ってなさい。……桃花、お姉ちゃんの傍にいてあげてね」
「優人の家は、K中学校付近にある」
「わかったわ」
 返事をすると母は、大急ぎで出て行った。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
 静まり返った部屋に、桃花の声が響いた。
「うん……。ありがとう」
 私が返すと、桃花は小さな手で私の背中をさすりながら、
「ううん、いいよ」
 そう言った。
「桃花、」
「ん?」
「……ごめんね」
「何が?」
 まだ小学六年生の桃花が、この状況をどこまで把握しているのか分からない。何がどうなっているんだ? って、混乱しているのかも知れないし、子供ながらに色んな感情を宿しているかも知れない。色んな事知っているかも知れない。
 ただ、現時点で確実に分かっている事が、二つある。
 一つは、今日の事を、桃花は生涯忘れないという事。
 もう一つは、私達の悲しみは皆、平等だという事。
「ううん、何でもない」
 桃花の問いには答えず、私はそう呟いた。






 それから暫くして、母が泣いている夕海を連れて家へと戻ってきた。
 時刻は二十一時を回っていた。外は真っ暗だ。
 私の予想は当たっていたみたいで、夕海は優人の家へと向かっていたらしい。私は夕海が泣いている事に酷く驚いた。
 母によると、夕海を追い掛けてその姿を見付けた時点で、夕海は泣いていたらしい。きっと、この部屋から出た時から泣いていたのだろう。
 何故、こんなに皆が苦しまなければならないのだろう。私個人の問題で、今苦しんでいるのは私一人だけの筈なのに。きっとそれは、私の苦しみを皆が背負ってくれているからだ。背負わなくてもいいのに、放っておけば自分は苦しまなくてもいいのに。
 けれども、そんな事が出来る家族ではないと私も解っているから、皆の存在には心から感謝した。同時に、申し訳なかった。私などいなければ誰も苦しまなくて済んだのだから。
< 65 / 73 >

この作品をシェア

pagetop