愛を待つ桜
聡の手から子機がスルッとすり抜けた。

真っ直ぐ床に落ち、ゴトンと鈍い音を放つ。


「兄さん? 兄さん、どうしたんだっ!」


稔の声が違う世界から聞こえるようだ。

もう遅い……自分で言った言葉が、聡の背に重く圧し掛かってきた。


(――夏海を失う)


もう1度顔を見て話しさえすれば、夏海のほうから離婚を取り止めてくれるかも知れない。
そんな微かな希望が心の何処かにあった。


3年前から、聡は人生のどん底を歩いてきた。

夏の始めに入籍したとき、やっと幸福を取り戻せたと思った。それなのに、過去に囚われた挙げ句、愛する女性を自らの手で切り捨ててしまった。

3年前は子供のために歯を食いしばって耐えたのだろう。

だが今度は、その拠りどころすら奪い取ってしまった。


何かが間違っている。罰を受けるなら自分のはずだ。

誰に言うでもなしに、そんな胸の内が聡の口からこぼれた。


「夏海が……事故に遭った。いや、自分から車に飛び込んだらしい。俺は……妻を、殺したのか?」


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