愛を待つ桜
しかし、声の震えは隠せない。
掴まれた腕を振り解こうと力を入れるが、逃がすまいと、聡も本気で掴んでいるようだ。
思わず、「痛い」と声が出そうになる。

だが、意地でも言うまいと夏海は口を結んだ。


「それは……私が愚か者ということか」


聡の声も震えている。

睨みあったふたりの瞳はしだいにその距離を縮め……。


「とんでもない。私が、そんな愚か者じゃないと言いたいだけです」

「――そうか」


息の届く距離で聡の声が聞こえた。

直後、ふたつの瞳が目の前に迫る。

突然のことで体も頭も動かない。夏海自身は瞳を大きく見開いたまま、ふたりの唇は重なっていた。

しだいに、許せないという感情が込み上げてくる。

突き飛ばして逃げなければ、夏海の理性が警告を発する。

それなのに……。


抵抗するために掴み返した聡の両腕を、夏海は放すことができなかった。

気が付くと、夏海自身も瞼を閉じて聡のキスを受け入れてしまったのだ。

キスは少しずつ熱を帯びてくる。

恋に落ちた、最初のキスのように。


「……このまま続けると、クローゼットの再現になりそうだな」


そんな聡の辛辣な口調に、夏海はハッとして我に返った。

最後の理性で聡を押し退け、思い切り彼の頬を叩く。
乾いた音が所長室に広がった。


「私は……あなたの愛人じゃないわ」


今度は夏海の頬が真っ赤だ。
それが怒りのためだけとは言い切れないのが悔しい。


「そうかな? 君の秘書の仕事には、こういうことも含まれてるんじゃないか?」


聡の真意がわからず、夏海は彼を言い負かすことに必死だった。


「道理で、今まで皆辞めて行ったはずだわ! あなたは秘書にこういった仕事も要求するんですね。とんだセクハラ弁護士だわ!」


夏海の思惑通り、聡は声を荒げ、


「私は秘書にそんなものは求めない! 匡とは違う!」

「2度と私に触れないで! 今度あんな真似をしたら弁護士会に訴え出るわ!」

「やれるものならやってみろ!」


直前までの熱気とは別の熱が沸点まで達し、ふたりの怒鳴り声は事務フロアまで響き渡った。


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