愛を待つ桜
熱に浮されたような聡の声を耳にした瞬間、夏海の中に必死で築き上げた防波堤が音も無く崩れ始めた。

キスだけじゃない、彼女の『初めて』を全部奪ったうえ、苦しみと喜びの種を残して去って行った男。
そんな男を、誰に何と言われても黙って信じ続けた。
実家に戻った彼女が親に泣きつき、彼女の両親が一条家に乗り込むようなことになれば、おそらく真実は明らかになっただろう。


もしあのとき……。


だがそれは、決して夏海のせいではなかった。

彼女は聡の立場を思いやり、罵倒されても信じた続けた結果なのだ。


陣痛で苦しむ中、夏海には励ましてくれる声も、背中を擦ってくれる手もなかった。
子供の誕生を祝ってくれる人間もおらず、その直前に知った聡の結婚は、産みの苦しみを凌駕するほど、彼女の心をずたずたに引き裂いた。


動けるようになったら、子供を連れて聡と妻の前に立ってやる!

あなたが殺せと言った子供だ、と突きつけて聡の家庭をぶち壊してやろう!


頼る人のいない孤独で苦しい生活を、憎しみの炎に変える事で夏海は耐えた。

ところが、幸せな家庭を壊してやりたいと憎んだ男は、壊すべき家庭も幸福もすでに持ってはいなかった。
それどころか病的な仕事中毒で、生きることがまるで苦行のようだ。

今の聡には、夏海がひと目で惹かれ夢中になった優しい笑顔は消えていた。


キスは夏海を愚かで無垢なころに引き戻す。

聡の愛を信じていたあの一瞬に。


夏海の腕から力が抜け、その指が聡の上着を掴んだとき……ふたりの時間は、3年の月日を巻き戻していた。


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