愛を待つ桜
「ちょうど良かった。これ以上、妻と息子をこんな場所には置いてはおけない。来月と言わず、今月中にも引き払おう」


突如現れた聡は、そう言い切ったのである。


「聡さん!?」

「私は父親として夫として通っているに過ぎない。下種の勘繰りは甚だ不愉快だ」


一介の大家にも容赦なく、辛辣な口調と冷酷な視線を投げつける。


「こ、こんな場所に、若い娘と子供を囲って……何を偉そうに。何が、夫よ……あ、愛人だって、みんな、言ってるんだから」


夏海相手には完全に見下した態度を取っていた大家だが、聡の登場に表情が変わった。

明らかに仕立ての違うスーツを着て、襟元には少しくすんだ色の弁護士バッチを付けている。
しかも、彼は日本人には珍しく180センチを超える長身だ。
意図はなくとも威嚇に見える。ましてや、意図があればなおのこと。
嫌味を言いつつも、大家の声は小刻みに震え、徐々に小さくなった。


「ほう、何の証拠があって愛人呼ばわりするんだ。しかも、司法書士の彼女を、男を家に連れ込んで商売していると言ったな」


大家を睨みつけたまま、聡は狭い玄関に足を踏み入れる。
入れ替わるように、大家はドアににじり寄った。


「妻を娼婦呼ばわりされて黙っているほど寛容ではない。私を愛人と言った全員を、名誉毀損で訴えても構わない。私は弁護士だ。一条聡の名で出頭命令が届く可能性もある。覚悟するんだな!」


大家はひと言も発せず、転げるように玄関から逃げ出したのだった。


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