愛を待つ桜
昨夜のことを思い出すだけで、夏海の心に不安が忍び寄る。
聡の妻と名乗ることすら躊躇いを覚えるのだ。

理由はひとつ。
聡は再会から1度も、夏海が密かに切望する言葉を口にしてくれない。

今も隣で悠を抱え、「弟がいいか? 妹がいいか?」と嬉しそうに聞いている。


(――こんな時間がいつまで続くのだろう?)


聡と寄り添い、親密に過ごす時間はこの上なく幸福だ。
求める気持ちに、抗うことなどできない。

だが離れた瞬間、たとえようのない孤独が夏海を襲う。


「午後はクライアントとの約束はなかったな。私も一緒に戻ろうかな」


悠と離れがたくなったのか、聡はそんなことを言い始めた。


「でも、週明けまでに作成しなければならない書類が……」


夏海が言い返すと、「そんなに私と一緒が嫌なのか?」彼はムッとする。


「そんなことは言ってません」


書類は家で作成する、後は如月に任せる、聡はそう宣言した。
1度言い始めたら聞かない男だ。夏海は反論せず、書類を取りに行くという聡に付き添い、20階まで戻って来たのだった。


「すぐに戻る」


そう言って聡だけ事務所に向かった。

しばらくは、エレベーターホールの窓から見える20階の景色にはしゃいでいた悠だったが、次第にその代わり映えのない眺めに厭きてしまう。

そして、夏海の目を盗んで、パパの歩き去った方向へ駆け出したのだった。


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