愛を待つ桜
『ここなら誰も来ない』

『待ってください。私には仕事があるんです』


カチャ……カチ。
――ドアが閉まり、ノブの内鍵を締める音がした。


『こうすれば誰も入って来れない。なあ、いいだろう。今朝も恵美子とケンカした……もう限界だ。助けてくれ』 

『稔さま』

『辛いんだ。もう、僕はダメかも知れない……』

『そんなことありません。大丈夫、しっかりしてください』

『君は……僕を拒否したりしないだろう? 受け入れてくれ!』


声が止んだ直後、荒い息と唾液の絡む音が室内に広がった。



このとき、聡は冷静に見えて実は戸惑っていた。
なぜなら、初対面の女性から視線が外せないなど、初めての経験だからだ。「それじゃ」と、傍から離れるのもなぜか躊躇われる。
だが、いつまでもこんなところにいるわけにもいかない。

彼がクローゼットから出ようとしたとき、聞こえてきたのは直弟・稔《みのる》の声だった。

聡には弟妹が3人いる。
2歳下の稔、4歳下の匡、そして12歳下の妹・静《しずか》だ。

その中で唯一の既婚者が稔であった。

しかし、客室で彼が抱き合っているのは実家の家政婦、三沢亮子《みさわりょうこ》である。
ふたりは愛人関係にあり、聡はそのことに気付いていた。いつか稔と話し合わなければ、と思っていたが、今はそれどころではない。


夏海には音だけだが、聡の高さだとドアに付けられた換気用の小窓から一部始終が目に入る。
ただでさえ、10年以上ぶりに持て余しそうな感情を抱えているのに……聡は舌打ちして視線を逸らした。

すると、耳まで真っ赤になった夏海の首筋を見てしまい、今度は慌てて上を向く。


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