私の道
たくさんの学び、喜び、挫折。色んなことを積み重ねて少しづつ年を重ねていった。
そして数年前、産婦人科医師の不足により、出産を中止することになった。
お産に関われなくなり、変わりに他の科の患者さんと看護師として接することになった。
いつ再開できるか分からない状態で、仲間の助産師が次々と辞めていった。
私も悩んだ。
いつ再開できるかわからない所で、どんどんお産から離れて、大丈夫なんだろかと。
ちょうどそのころ、数名の助産師が交代で看護学校に臨時教員として行くことになった。
私も数カ月間学校勤務をし、実習の引率をして、他の病院の産婦人科を見に行くことができた。
その結果生まれた気持ちは、よそに移りたいというより、今の病院で産科をやりたいという気持ち。
なにもわからないペーペーの私を何とか一人前にしてくれたのは、今の病院。
できればこの病院で、自分たちの産科を作りたいと思った。
だけど正直、何年も待つ自信もなかった。
他の病院に行った人たちが、どんどん出産に関わってるのに、私たちは他の業務に追われて、どんどんお産から遠ざかっていく。
あせりも迷いも、いっぱいだった。
どうしたらいいのか、迷いながらの数年だった。
そして数年前、産婦人科医師の不足により、出産を中止することになった。
お産に関われなくなり、変わりに他の科の患者さんと看護師として接することになった。
いつ再開できるか分からない状態で、仲間の助産師が次々と辞めていった。
私も悩んだ。
いつ再開できるかわからない所で、どんどんお産から離れて、大丈夫なんだろかと。
ちょうどそのころ、数名の助産師が交代で看護学校に臨時教員として行くことになった。
私も数カ月間学校勤務をし、実習の引率をして、他の病院の産婦人科を見に行くことができた。
その結果生まれた気持ちは、よそに移りたいというより、今の病院で産科をやりたいという気持ち。
なにもわからないペーペーの私を何とか一人前にしてくれたのは、今の病院。
できればこの病院で、自分たちの産科を作りたいと思った。
だけど正直、何年も待つ自信もなかった。
他の病院に行った人たちが、どんどん出産に関わってるのに、私たちは他の業務に追われて、どんどんお産から遠ざかっていく。
あせりも迷いも、いっぱいだった。
どうしたらいいのか、迷いながらの数年だった。