「で?」

「ですから、もう帰られました。とーっくの昔にね」


 静国の中央にそびえ立つ青と白のコントラストが美しい静国城。その城内の大きめな部屋の中、大人の男二人が向かい合って立っている。

 一人は黒い長い髪を頭の上の方で束ねている。彼の左右の目は紫と赤と違う色を映し出すオッドアイ。
 一年三六五日(例外あり)不機嫌顔をしているこの国始まって以来の問題皇子、紅だ。

 そしてもう一人の男は、長身細身の男。薄緑の髪を後ろで三つ編みにしてまとめており、その顔にはどことなく胡散臭い笑顔を常に貼り付けている。ある意味能面のように笑顔を張り付けている彼の目を見た者はいないと言われている。
 身体の右側に三冊程の本と沢山の書類の束を抱えている彼は、この国の神官兼、皇子躾役のリョクユだ。決して世話役ではない。『躾』役だ。


「きちんと挨拶もしてないのにか?」

「ですね」

 紅が眉間にこれでもかというほどの皺をよせ、物凄い目で睨むのにも動じず、リョクユは胡散臭い爽やかな笑顔でそれを流してしまう。ついでに空いている片手で器用に書類に署名をし始める。
 そんな彼の態度にイライラのピークに達したのか、紅は腰に差してある刀に手を伸ばす。紅の行動に、リョクユはちらりと顔を向けたものの、さして気にした様子もなく署名作業を続ける。
 紅も紅で彼とやり合って勝てないのは分りきっているため、手をかけるだけでそこから刀を引き抜くことはしないのだが。


「なんで俺に何も言わなかったんだ! なんで、引き留めなかった! なんで俺を呼ばなかったんだ!」

 紅は子どもが駄々をこねるかのように「なんで」を連呼し始める。そんな紅にリョクユは困った人ですねぇ、と呟くと、笑顔を一層深くしてこう答えた。困ったと言いながらも彼が楽しんでいるのは一目瞭然だ。


「それが紫蓮様の命令でしたから。それとも、紫蓮様の仰ることを無視しろと?」

「っな! いや、無視……引き留め……無視……引き……むっ……! だぁあああ! 姉上ぇええぇぇえ!!」

 リョクユの言葉に紅はあからさまに詰まってしまう。

 大好きな大好きな大好きな姉の紫蓮に一目会いたかった紅。だが、そんな想いとは裏腹に彼女は何事もなかったかのように、いつの間にか帰ってしまったのだ。

 できることなら毎日会って話たいのにそれが出来ない。チャンスを掴んだものの、まんまとそれを逃してしまった……。だからといって、そのことで姉上を責めるなんて以ての外。論外。これは自分の我が儘なのだから。

 悩み果て詰まり果てた紅は、空に向かって自分の姉の名前を叫んだ。しかし、叫び声は天井に吸い込まれ返事は返って来るはずもない。

 紅は最後に小さく「姉上……」と呟くとその場に座り込み、いじけるように沈み込んでしまった。

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