リョクユは毎度のことながら、やれやれ、と溜め息をつくと沈み込む紅にくるりと背を向けてスタスタとその場を後にする。

 紅がリョクユに喧嘩事では勝てないのを知っているように、ここで彼に声をかけても無駄だということを、長年の付き合いからリョクユも知っていたのだ。



 王がいるはずの執務室に向かう途中、曲がり角でリョクユは人の気配を感じて立ち止まる。数秒後、気配通り誰かが曲がり角を曲がってきた。

「わっ、びっくりした。リョクユ、こんなところで何やってるの?」

 神官であり、皇子のお目付け役であるこの自分に向かい、呼び捨て、タメ口を聞くことができるものなどこの城には数人しかいない。
 紅のように横柄な物言いでもなければ、王のような年老いた男の声でもない。相手の正体を見ずとも察したリョクユは僅かに口角をあげた。

「ああ、李黄さんですか。これから王のもとへ行かなくてはならなくて。李黄さんこそこんなところで何を?」

「私は、お仕事でお使い頼まれてね。いつもの報告書とお手紙を渡しにきたんだ」

「では今からは?」

「仕事に戻るよー」

「そうですか。ああ、それはそうと、先日はご苦労様でした」

 リョクユは李黄に言葉をかける。『先日のこと』というのは勿論、李黄がリョクユの指示で橙妃をテストした件のことだ。リョクユの労いの言葉を受け、李黄はにっこりと微笑み返す。


 前回、玉が偽物ということで、獣人ながらなぜこの城にいるのか謎の残った李黄だが、実は彼女は本当に『玉』の使い手であった。もちろん、前回の壊した玉は偽物だが。
 予め玉に似せた偽物を用意した上で、橙妃の隙と動揺を誘おうとしたのだ。そうすることで、橙妃の性格・判断力を見極めようとした。

 橙妃はそのことをテスト直後に聞いたが、(精神的に)疲れていたためか、あまり反応を見せなかった。


*****


 李黄は獣人ながらに玉を持って生まれたため、遠い故郷を離れたこの人間の大陸にいる。この静国に落ち着くまでは人間の大陸を転々としていたそうだ。

 獣人の大陸では『玉』は人間の大陸特有のものということもあり、あまりよく思われていない。


 古くからわだかまりのある獣人と人間。人間は獣人のようなすぐれた身体能力を持たない代わりに、絶大な力を持つ『玉』を手に入れた。大多数対精鋭の構図は獣人対人間の種族間の抗争を最も的確に表す。

 いつどこで何が原因で始まったか、などすでに誰も覚えてはいない。比較的平穏な日々の続く現代でさえ、そこかしこに不穏な空気は垣間見れる。
 獣人の大陸にいる人間、人間の大陸にいる獣人。そのどちらもが肩身の狭い思いをして生きている現状が、まだ根深く残る戦争という傷を体現しているのだ。


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