惑溺
「忘れ物取りに来ただけって、もう帰っちゃうの?
せっかく会えたんだし、ちょっとだけ一緒に飲まない?」
博美は慣れた様子でカウンター席に座り、立ち尽くす私を振り返る。
「……博美は、ひとりなの?」
ひとりでこの店に通うほど、リョウの事が好きなの……?
私は聡史だけじゃなく、博美の事も裏切っていた事に気が付いてぞくりと鳥肌がたった。
麻痺していた罪悪感がじわじわと心臓を握りつぶすようで、息苦しかった。
「ううん、これから会社の飲み会なの。
会社のエロオヤジたちと飲む前に、イイ男の顔を見て心を癒そうと思って」
冗談混じりにそう言った博美に
「イイ男って俺の事ですか?光栄です」
リョウはクスリと笑いながら、何事もなかったようにカウンターの中に入る。
特に注文も聞かずにカクテルの準備をする彼の様子に、博美が頻繁にここに通っているのがうかがえた。
「……ごめん、博美。
私用事あるから、帰るね」
それ以上、明るく笑う博美の顔を見たくなくて、私はそれだけ言うと返事を待たずに外へと出た。